親友と妻が関係を持ち…ハートの反応は?
その話も十分に深刻だが、妻に対するハートの悩みはそれだけではない。ジェニファーはオープンマリッジを標榜し、ハートとの結婚後、オックスフォードで数名の男性と婚外交渉を持った。その一人が、誰あろうハートの親友バーリンである。
ジェニファーのこのような行動の背景には、ハートが自分の同性愛的傾向に悩んでいたという事情もあったようだ。ハートは一度、自分の娘にこう語ったことがある。「この結婚の問題は、我々のうちの一人はセックスが好きではなく、もう一人は食べものが好きではないということだ」(注7)。前者がハート、後者がジェニファーのことである。
ジェニファーとバーリンの関係は1940年代の後半から始まり、バーリンがアリーン・ド・ギュンツブールという女性と結婚した1950年代半ばには終わったようだ。
だが、その30年後にアリーンがハート夫妻に対して、「あなたたちの家の隣に家を買って引っ越してくれば、もし私が先に死んだら夫〔バーリン〕は親友一家の隣に住めていいんじゃないかしら」と述べたことがあり、アリーンが帰ったあとに、ハートはジェニファーにこう言ったという。「何という良い考えだろう。そしたら、私が死んだら、君はついにバーリンと結婚できるじゃないか」(注8)。
しかし、ハートはバーリンから直接、ジェニファーと恋愛関係にあることを二度告げられながらも、それを信じないと述べてバーリンと変わらぬ友情関係を保った。
レイシーはその証拠として、ハートが1981年に法哲学者のニール・マコーミックの草稿を読んだとき、ハートにとってバーリンは「哲学の同僚の中で最も仲の良い友人」と書いてあるのを見て、「哲学の同僚の中で」を削除するように指示したという(注9)。アカデミアにおけるハートとバーリンの関係は、ロック音楽におけるジョージ・ハリソンとエリック・クラプトンの関係に近いと言えそうだ。
ここまで見てきたように、ハートはオックスフォードで悩みの深い人生を送っていたようである。このような話を知っておくと、ハートの法理論をよく理解できるようになる……わけでは必ずしもないが、彼の明晰で分析的な文章の背後には、合理性だけではすまないドロドロの人生があったことを思い出すと、何かの役に立つこともあるかもしれない。
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【注釈】
注1 Sugarman, David and H. L. A. Hart, “Hart Interviewed: H. L. A. Hart in Conversation with David Sugarman,” Journal of Law and Society, Vol.32, No.2, 2005, pp.267-293. シュガーマンによるハートのインタビューはYouTubeで聴くことができる(音声のみ)。9回に分かれているので、下記に1つ目のリンクを示しておく。H. L. A. Hart Interview Part One: Childhood and Early Career(audio) , https://www.youtube.com/watch?v=xgigb36aC7Y
注2 Lacey, Nicola, A Life of H. L. A. Hart: The Nightmare and the Noble Dream, Oxford University Press, 2004, pp.41-43. (翻訳、ニコラ・レイシー著、中山竜一/森村進/森村たまき訳『法哲学者H・L・A・ハートの生涯―悪夢、そして高貴な夢 上・下』岩波書店、2021年)
注3 レイシーの記述によると、ハートが入った20年代はオックスフォードの学生約4000名のうち、ユダヤ人学生は40名ほどだった。後年は、ハートがユダヤ人であることを知らない学生も多かったという。
注4 Lacey, Nicola, op. cit., p.131. レイシーの伝記では、ハートがユダヤ人家系であることと、また彼の同性愛的傾向が彼の内面的葛藤の大きな要因として描かれている。
注5 Ibid., pp.132-142.
注6 Lacey, Nicola, op. cit., pp.342-344; Lacey, Nicola, “Jenifer Hart,” The Guardian, 11 April 2005, pp.1-7, https://www.theguardian.com/news/2005/apr/11/guardianobituaries.obituaries
注7 Lacey, Nicola, op. cit., p.236.
注8 Ibid., p.177. もう一つの興味深いエピソードは、ジェニファーが1959年に4人目の子どもを妊娠したことをハートに告げたときのハートの反応である。彼女は自分の日記にこう書いている。「彼の最初の質問は、『それは自分の子か?』だった。私は彼の子どもだと保証したが、もしそうでなかったら誰の子だと思うかを彼に言わせた。彼の答えは、スチュアート〔ハンプシャー〕かアイザイア〔バーリン〕の子どもではないかというものだった。彼はその二人ならどちらでもかまわないそうだ。進歩が見られる。」(Ibid., p.237)
注9 Ibid., p.178.