「(『ワンダーウォール』を作った時)教育機関がそういう横暴な態度をとることに対して、みんなもっと怒るべきだと思ったんです。だけど、ドラマとしては評価をいただき映画化もされましたけど、結局誰も一緒に怒ってくれなかった。怒りの声を上げても、もともと問題意識を持っている方しか味方になってくれないのを感じたんですよね。
そのとき、怒りや悲しみといったネガティヴな表現で、無関心な人を動かすことには限界があると思ってしまったんです。味方を増やすには、もっと楽しかったり面白かったり笑えたりする形で伝えるのが、私のような者の役割なんだなって。だったらこういうのはどう? という気持ちで『ここぼく』や、今回の『エルピス』を作っているところがあります」(『FRaU』渡辺あやインタビューより)
結局は誰も一緒に怒ってはくれなかった、という渡辺あやの言葉はショッキングではある。『ワンダーウォール』にはSNSでも多くの絶賛が寄せられていたからだ。だが、2011年以降、すべての個人賞を辞退していると言われる渡辺あやという脚本家にとって、その物語は「褒められる」ことを目指して書いたものではなかったのだろう。
怒りや悲しみの表現で人を動かすには限界がある、味方を増やすには、楽しさや笑いの中でメッセージを伝えなくてはならない、という言葉は、単にプロの脚本家としてのテクニックだけではなく、「さあ怒れ、なぜ怒らない」と知識人たちが声を枯らすほど大衆と乖離していく今の政治状況に突き刺さる言葉だ。
長澤まさみが適任すぎるワケ
そして、渡辺あやが目指す「怒りの先にある表現」に対して、長澤まさみほどよく応えられる俳優はいないだろう。「素の自分に一番似ていると地元で言われる」と語る『コンフィデンスマンjp』の主人公ダー子を演じる時にも、フジテレビコメディ的なテンションの中にふと見せる真剣な表情が作品に背骨を通してきた。そうした一筋縄ではいかない重層的な演技が長澤まさみの真骨頂でもある。
「『何でも抑圧して、排除して、見えないことにすればいいというものではない』という危機感が、個人的にあります。人間って、もっと怖い生き物のはずで、『不都合な欲望』にも『置き場所』がないといけない。そして、古くからそういう役目を担ってきたのが、芸術や文学だったはずなんです。」(「文春オンライン」2022/10/31)
セクハラやパワハラの表現をただ隠せばいい、見えないように配慮すればいいという風潮に対して渡辺あやは疑念を語り、プロデューサーとの議論の中で「セクハラ描写は残す」と押し切ったと語る。『ガラガラヘビがやってくる』をがなり歌う、フジテレビ文化の自己風刺のような上司は、ドラマの中で重要な役割を果たすという。
『エルピス』のテーマは、政治や法制度である以上に、テレビそのものである。この国を支配する最も強い力のうちのひとつが地上波テレビであり、だからこそ『カーネーション』の渡辺あや、『カルテット』の佐野プロデューサー、そして国民的スターである長澤まさみが一つの作品に勝負をかけることになったのだ。
社会的なテーマを扱った本格ドラマの視聴率は一般に伸びにくく、『エルピス』も主演•長澤まさみの看板で持ちこたえている状態とも言える。視聴率がすべてではないというのはもちろんだが、第四話『視聴率と再審請求』の中で主人公が独断で持ち込んだ報道が視聴率を勝ち取り(上司の反発を警戒しつつ)発言力を得ていく、という描写は、渡辺あや脚本による「大衆の欲望の中で自分の仕事を取り戻してみせる」という決意にも見える。自分の仲間だけが見てくれればいい、という物語ではないと思うのだ。
それは正義をめぐる物語である。だが、正しいだけの物語ではない。物語の行方は半分。パンドラの箱はまだ半分開いただけに過ぎない。最後に残ったと言われる『エルピス』は、果たして希望となるのだろうか。