後悔ばかりの在宅医療
在宅で看取って良かったなと思うことは、母が「自分がいたいと思う場所」にいられて、終われたということです。病院の個室より、家の人の生活音があって、変わらない日常の中で寝ていられる。思うように体が動かなくても、それはよかったことだと感じます。
でも、病気を、寿命を、知らせてあげたかった。あとわずかな命だときちんと教えてあげて、そしたらもっと伝えたいこともあったかもしれないと思うんです。
「輸血」という処置にも、迷いがありました。白血病は正常な血液細胞が減少していくので、輸血をすれば、母は「ラクになった」と言います。でもそれは足りないものを入れる対症療法であって、輸血によって病が治ることはないでしょう。医療の現場では血液不足も指摘されています。治る見込みのない高齢の白血病患者である母に、輸血治療を行い続けるのは「延命」にあたるのではないかと悩みました。本当のことを説明して、母の考えを聞きたい。けれども、母が重視した「長男の考え」を優先し、長男、つまり弟の意向に従うしかありませんでした。母はさまざまな事案について「長男である弟に任せたい」と常日頃から言っていました。私も姉(長女)も黙るしかありません。
けれど一方で、母は内心こういうケアをしてほしいだろう、というのが娘の私にはわかる。だから母も、身の回りのことは、長男夫婦より私に頼ってくる。在宅の進め方としては後悔ばかりですが、それも母が生前に長男長男とかわいがってきたから仕方ないって、自分に言い聞かせているんです。
病院で看取った人と、自宅で看取った人の違い
病院の変更も、訪問医の交代も、長男に許可してもらえないため叶わなかった。実は訪問医は、白血病患者を一度も診たことがない、老衰や認知症の患者の看取りばかりやってきた医者だったのだ。それを知ったのは母の死後だった。知賀子さんが改めて言う。
自宅で白血病の緩和ができず、母をラクにさせてあげられませんでした。それでも母にとっては自分が望んだ場所だからよかったんだと思いますが、私にとっては5年経った今も、母の笑顔より苦しんだ顔ばかりが浮かぶんです。病院で看取った人と、自宅で看取った人の違いは「真の苦しみ」を見ているかどうかの差ではないかと思います。
母を看取った後、自分の死がぐんと近寄ってきました。
父をはじめ身内では突然死の人が多かったですから、苦しむ顔も見ていないですし、単に長い間、会っていないだけという感覚になってしまいそうになるんです。それが母を家で看取ったことで、死ぬってこういうことなんだって母に教えられた気がします。