自らの「最期」を迎える場所として、ほとんどの人が自宅を希望する。しかし現実は異なり、現在の日本では8割の人が病院で最期を迎える。では、「家で死ぬ」にはどうすればいいのか。そして、「家で死ぬ」場合、実際にはどのような最期を迎えることになり、家族はなにを思うのか――。
ここでは、在宅死に関わる人々や終末期医療の現場に足を運び、在宅医療の最新事情を追ったジャーナリスト・笹井恵里子氏の著書『実録・家で死ぬ 在宅医療の理想と現実』(中央公論新社)より一部を抜粋してお届けする。(全2回の2回目/1回目から続く)
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“あること”が病状悪化の契機に
親が子どもを看病するケースは端で聞いていても痛ましい。
2014年10月7日、松本千鶴子さんは17年におよぶ闘病生活を経て、自宅で亡くなった。44歳だった。
千鶴子さんは27歳の時に、「膠原病」と診断された。
盲腸の手術後に、顔がすごく腫れたのだという。医師は「おたふく」を疑い、入院中に検査したがわからない。退院してからさまざまな検査を受け、そこでようやく診断を受けたのだった。膠原病は、病原体などから体を守る“免疫システムの誤作動”により、自分の体を攻撃してしまう病気。
関節リウマチをはじめさまざまな病気が膠原病には含まれるが、千鶴子さんは「難病」と指定される病だった。治療にはステロイドを中心とした免疫を抑える薬が用いられる。
その3年前に結婚していた千鶴子さんの夫に、母親である桜井けい子さんは娘の病名を告げた。
そして「こちら(実家)で引き取ります」と伝えると、夫は「ぼくが一生面倒みます」ときっぱりした口調で応えたという。実家から徒歩15分ほどの場所に、千鶴子さんと夫は居をかまえた。
周囲の心配をよそに、その後も千鶴子さんは変わらない日常を送っていた。1人で旅行にも出かけていた。娘の元気な姿に、母親のけい子さんはその診断が嘘じゃないかと思うほどだったという。しかし、それから5、6年が経過して千鶴子さんが30代半ばになった頃、病状悪化の契機となることが起きる。けい子さんが語ってくれた。
「これからは2年スパンで考えましょう」介護生活に突入
ある日、千鶴子が飼い始めたばかりの猫に噛まれてしまったんです。1日経たないうちにその傷口がみるみる膨れ上がって。慌てて病院に駆け込みました。病院に着くと同時に娘の容体は急激に悪化し、「敗血症」を発症しました。先生から「99.9%助からない。覚悟してください」と言われたんです。
次々にたくさんの薬が投与されました。
その結果、奇跡的に一命をとりとめたのですが、先生の表情は暗かった。「助かると思いませんでした」と、複雑な表情をするんです。
「どの薬が効いたかわからないほど薬を使ってしまいました。正直に言って5年生存率は50%でしょう」
その「5年」という期間を本人がずっと気にしていたんです。実際に5年経つ頃の40歳近くになると、だんだん容体が悪くなっていきました。
そして先生がこう言ったんです。「これからは2年スパンで考えましょう」と。娘は余命宣告と捉えました。そこからさらに坂道を転がるように悪化していったのです。日中は私が娘宅に通い続けるという、介護生活に突入しました。