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「24時間いつでもお電話ください、いつでも来ます」と言っていた訪問医が夜間に来ることは一度もなくて、訪問医と一緒にやってきた看護師も医師のそばに立って見ているだけ。弟や姉との看護に対する考えに違いがあり、身内の気持ちもうまく1つにまとまりませんでした。加えて母本人に病名、病状は知らされない。もちろん本人も嫌がる病院に戻ることはできないし、いつ亡くなるかわからない白血病患者を受け入れてくれる病院もない。

 別に契約をしていた訪問看護師の方は寄り添ってくれましたが、基本となる訪問医と看護師の言うことは日々ころころ変わるんです。もう誰を信じていいのかもわかりませんでした。

 緩和ケアを家族に丸投げされ、母は苦しんで、体も心も変わっていく。何もできない自分が情けなく、途方にくれる日々でした。

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弟夫婦に内緒で母が望む食品を用意

 手探りの中で、知賀子さんはこれまで育ててくれた母に対する「恩返し」のつもりで、がんばった。最後の1か月は驚くほど母と触れ合った。

母・鈴子さんと触れ合う娘の小平知賀子さん

 長男夫婦は自分たちが認めた食品でなければ母に与えません。医師がダメといえばダメなんです。でも死を間近にした母に、どうしてそんな制限をするのでしょう。私は時折目を覚ます母に、望む食品をこっそり与えました。自分の指に蜂蜜をつけて吸わせたり、死の4日前は甘酒を飲ませたり。母はおいしいって言っていました。亡くなる数日前には「みかんが食べたい」と言うので用意しようとしたら、弟(長男)が訪ねて来てまたダメと。でも翌日に黙って持っていって、みかんをちぎって、母の開いた口にその水分を少しだけふくませました。糖分だからか、母の意識が少しだけしっかりしたようでした。でも、次の瞬間にはせん妄がひどくなって、痛がって、私は添い寝して母の体をさすり続けて。

実家に着いた時には穏やかな死に顔の母が

 特に最後の1週間は、毎日母の手をとってさすり、足のマッサージを欠かさず、背中をさすって、同じ部屋にいる時は常に母の体に手をあてていました。母を抱きしめ、抱きしめられる日々でした。その時、突然、私の胸に感謝が湧き出してきて……。

「お母さん、ありがとう、ありがとう」

 そう叫びました。

 娘として日々を過ごさせてもらったこと、人はこう終わっていくんだよ、と目の前で教えてもらったこと。母はふんふんとうなずいていました。

 最後の日となる、2017年3月10日。私は「夕方には行く」と約束していました。しかし嫌な予感がして、仕事を放り出して早めに実家に向かっていたところ、連絡をうけたんです。実家に着いた時には穏やかな死に顔の母がいました。

 不思議と、亡くなった後のほうが母の手が温かかったんです。その日はしばらく温かかったですね。