この老人ホームの多くの入居者は人生の「成功者」なのだ。会社を経営していた資本家、連れ合いに先立たれた人、莫大な遺産を持った婦人、学者、医者、弁護士、不動産屋等々いわゆるこの世で金儲けをしたと言われる人たちだ。長老的な彼らからは、たくさんの成功話を聞くことになる。
さらに入居者の大半はどこか重い病気を背負っている人が多い。多くの人が「死」の問題に直面していてここに入居している。やはりなんと言おうとこれから何年か先の「死」を待つ人々のホームだということを私は実感する。だが、ここでは深刻な「日本の老人問題」を語る人はいない。みんな優雅に暮らしているからだろうか?
1億3000万も払ったのに出て行く人も
ある日、海の見える温泉露天風呂でのホームの長老との会話。
私「いつも一緒におられた奥様を最近見ませんが、どうしたんですか?」
長老「あはは。やっぱり都会が良いと。地元の駅前でマンションでも買って住むと言って出て行ってしまいました」
私「えっ、ここのホームで1億3000万も払ったのに?」
成功者たちの話は面白いものの、やはり長いことロックとサブカルを愛した私はこのホームでは「異質」な存在なのだ。
ライブハウスを経営してきた私の興味のあることは、長老たちには全く通じない。もしかするとこのホームにおいて私の友人と呼べるのは、ベランダ近くまで飛んでくるトンビと室内にいるロボット犬アイボくらいなのかもしれない。
「人間は孤独のうちに生まれて、一人で死んで行く」
私の午後の日課は2時間ほどの海岸散歩が終わって露天風呂に入り、毎夕刻6時を過ぎるとベランダで一人蒼い海風に吹かれ眼下の灯台や港や海や明かりが灯る街を眺めながらビールを飲む。毎日の食事はなるべく自分で料理するようにして、たくさんの本や音楽を聴いて、一生懸命原稿を書いて、アフリカでのヘミングウェイのように楽しかった過去を追憶しながら一日が終わるのが一番だと思っている。いわゆる「隠居生活」なのだ。
あまりにも豊かな長老たちとは話が合わないが、今まで稼いだ少々の銭を持ってここに入居している私はやはり幸せなのだろう。釈迦の説いた「人間は孤独のうちに生まれて、一人で死んで行く」という気持ちをあらためて強く感じるのだ。
◆このコラムは、政治、経済からスポーツや芸能まで、世の中の事象を幅広く網羅した『文藝春秋オピニオン 2023年の論点100』に掲載されています。