固いきずなで結ばれていた。だが絶対服従の師弟関係とは違った。2年連続で40本塁打を記録して迎えた2001年のシーズン、松井は前年より2分の1インチ(約1.3センチ)短いバットを使った。グリップエンドを小さくして完全に右手に握り込み、遠心力を最大限に生かすためだった。当時の米大リーグの強打者ピアザ(メッツ)やトーミ(インディアンス=現ガーディアンズ)が採用していたスタイルだ。
これに反対したのが長嶋監督だった。テニスや剣道など他競技を例に出して小指の重要性を説き、グリップエンドに掛けた小指が強いスイングを生むと主張した。同年の6月25日、遠征で札幌へ移動した夕方だった。長嶋監督は「小指が大事だって言ってるんだけどな。松井がいうことを聞かないんだ。あいつがなあ」となぜか満面の笑みで「いうことを聞かない」弟子について語った。
全てを注いで育てた強打者が、打撃について「いうことを聞かない」のを好ましいと思っているかのようだった。こんな関係だったから、愛弟子に呼び出された2002年秋の日、揺るぎない決意を伝えられることは、会う前から分かっていたはずだ。
「行くならヤンキースへ行け」
2002年10月31日夜、東京都内のホテルの一室で松井は長嶋氏に向き合っていた。要件は明らかだった。フリーエージェントの権利を取得したこの年、自身初の50本塁打で3度目のリーグMVPに選出され、巨人を日本一に導いた。日本でやり残したことはなかった。
「アメリカでプレーしたいという気持ちを消し去ることができません」と伝えると、長嶋氏は「そうか、行くんだな」と静かに答えた。「やはり寂しそうでした」と松井氏は恩師の表情を思い返す。
前年限りで現場から離れ巨人の終身名誉監督になった長嶋氏は、球団から主砲の引き留めを期待されていた。だが手塩にかけて育てた最高傑作が一度腹を決めたら「いうことを聞かない」のは、誰よりも分かっていた。
しばらく間をおいて口を開いた長嶋氏の言葉には力が戻っていた。
「どうせ行くならヤンキースに行けよ」
大リーグ挑戦は長嶋氏の夢だった。1966年、日米野球で来日したドジャースのウォルター・オマリー・オーナーが巨人の正力松太郎オーナーにナガシマの獲得希望を伝えた。長嶋氏は2014年の共同通信の取材に「私は行くつもりでいた。正力先生が『行くな。ジャイアンツが駄目になるから』と。時代がね」と当時を語ったことがあった。
少年時代からアメリカ野球が好きだった。立教大では1年時から鬼と言われた砂押邦信監督を前に、大リーガーについての質問が止まらなかったという。憧れの選手はヤンキークリッパー(高速艇)と呼ばれたヤンキースのジョー・ディマジオ。松井の大リーグへの思いを聞き、自然とヤンキースという言葉が出た。

