大リーグを観戦に訪れることはかなわなかったが…
2003年、松井はヤンキースに入り、ヤンキースタジアムでのデビュー戦で満塁本塁打を放つ。ジョー・トーリ監督の信頼を得て、主に5番打者として1年目から全試合に出場した。長嶋氏とトーリ監督は、1974年に日米野球で意気投合し、互いに妻を伴って4人で食事をしたという縁があった。弟子を通じて再会した勝負師2人は、ニューヨークで旧交を温めた。
松井が日本を離れたのと同時期に長嶋氏は2004年のアテネ五輪に向け、日本代表監督として始動する。師弟はともに新しい立場で輝きを増していった。だが2004年3月、長嶋氏を脳梗塞が襲う。以後はユニホームを着ることも、大リーグを観戦に訪れることもかなわなかった。
野球の現場から離れた長嶋氏にとって、大リーグで活躍する松井の姿を追うことが日常生活の中で重い意味を持つようになったことは想像に難くない。一対一の素振りで「松井秀喜という選手の中に入り込んで一緒にバットを振っていた」長嶋氏は、テレビの前でただ応援していたわけではないだろう。画面の中に入り込み、大リーグの勝負を味わっていたに違いない。
「俺は35歳が一番良かった」
一方、2004年に31本塁打を放ち、大リーグでも順調にスターの道を歩んでいた松井に試練が訪れたのは2006年だった。5月に左手首を骨折し、4カ月間戦列を離れた。2007年に右膝、翌2008年には左膝の手術を受けた。
2008年のシーズン後、長嶋氏は松井に「俺は35歳の時が一番良かった。35は技術も体も一番いい時だ」と話した。長嶋氏は1970年、入団以来最低の打率2割6分9厘で限界をささやかれた。しかし、35歳で迎えた1971年に5度目のリーグMVPに選出された。「35歳最高説」は故障に苦しむ34歳の松井への激励だった。
松井は2009年、ワールドシリーズで3本塁打を放ち、ヤンキースをチャンピオンに導いてシリーズMVPに選出された。35歳になった愛弟子はヤンキースタジアムでトロフィーを手に1年前の恩師の言葉を思い出したという。
晩年の長嶋氏が、栄光に彩られた野球人生を思い返したとき、そこに松井秀喜はどのように登場したのだろう。ヤンキースタジアムの大歓声とMVPのトロフィーを高く掲げた雄姿だろうか。それとも2人きりの部屋で“球”を捉えた瞬間の高い音と、その一点に注がれた眼差しだろうか。

