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母の彼氏から「俺は本当のお父さんじゃないからね」と…16歳で父・石田純一と再会した“いしだ壱成”(48)が明かす、自給自足の幼少期

いしだ壱成インタビュー#2

2022/12/17
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 3度の離婚や病を乗り越え、俳優として復活の兆しを見せつつあるいしだ壱成。他方では、父・石田純一をはじめ、賑やかなファミリーの一員としても知られている。あらためてその家族観にスポットをあてた。(全3回の2回目/続きを読む)

いしだ壱成さん(48)

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実の父親が俳優の石田純一だと知った時

――ご家族と生い立ちについて、あらためてお聞きしたいと思います。いしださんが物心ついた時には、両親はすでに離婚されていたそうですが、実の父親が俳優の石田純一さんであると知ったのは何歳の時ですか?

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いしだ 小学校1年の時ですね。学校から帰ったらテレビがついていて、母がおもむろに「これ、お父さんよ」と画面を指差したんです。それが父の顔を初めて見た瞬間で、幼いなりに「芸能人なんだ」という驚きと、「本当かな?」という疑いがないまぜになったのを覚えています。

――父親という概念すらまだ曖昧だったのでは。

いしだ そうですね。ただ、母にも当時彼氏はいて、それが僕にしてみればお父さんのような存在ではありました。学校の友達が遊びに来た時など、いつも「誰?」と聞かれるんですが、僕もよくわかっていないから暫定的に「お父さん」と答えていたんです。

 で、友達が帰ったあとに、「いや、俺は本当のお父さんじゃないからね」、「そんなのわかってるよ」みたいなやり取りがたびたびあって。そんな複雑な状況もあったから、母はテレビに石田純一が映った時に、「お父さんよ」と教えてくれたのだと思います。

――なるほど。ところでいしださんは幼少期、国内外のコミューンを転々とする生活だったと耳にしたことがあります。どんな日常を送っていたのでしょう?

 

いしだ うちの母(星川まり)とその兄、つまり伯父(星川淳)はどちらも作家で、2人は60年代から70年代にかけて、アメリカからヒッピー文化を日本に持ち込んだ人なんです。日本におけるカウンターカルチャーとして、反戦やラブ&ピースといった思想を訴えていた人たちで、コミューンという共同体、共同生活の概念もこの時に始まったと聞いています。

 僕が物心ついた70年代後半は、我が家は東京・三鷹のコミューンで暮らしていて、その後は八ヶ岳や屋久島に移り住みました。基本的にずっと自給自足の生活なので大変でしたけど、学校にはなるべく行くようにしていましたね。

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