所有者の死去に伴い嵐山美術館は1991年に閉館してしまう。戦車は和歌山の「嵐山美術館 零パーク」へと移されるが、同館も2002年に閉館。せっかく日本に帰ってきた戦車は行き場を失ってしまったのだった。
情報の行き来に数カ月かかってしまい、購入できず
「軽戦車の買い手を探している」という情報は小林さんの耳にも入ることになった。当時はNPOを立ち上げていない一個人ではあったが、小林さんは購入したいと手を挙げたという。
「昔から乗り物が大好きな子どもだったんです。生まれ育った御殿場は近くに自衛隊の駐屯地もあったので、戦車は身近な存在でした。そういった環境が影響したんでしょうか、自然と戦車には興味があって、専門雑誌の編集部でアルバイトをしていたことがあるんです。そこで三菱重工のOBで戦車を作っていた方に出会ったことが現在の活動に繋がっています。
その人が『自分たちが青春をかけて作った戦車が新型の導入とともに溶解炉に行ってしまう。何とかして残したい』と戦車の博物館を作る運動をしていました。自分はそれを手伝っていた経験があったので、嵐山美術館に保存されていた戦車が売りに出されたと聞きつけた人が話を持ってきてくれたんです。ただ、当時はSNSも無い時代。何人もの人を経由して話が舞い込んできたので、情報の行き来に数カ月かかってしまいました。購入の意思が所有者に伝わった時には“時すでに遅し”でした」
『戦車を日本に返して欲しい』『嫌だ』と不毛なやり取りの連続
小林さんの意思が伝わった時点で、既にイギリスのコレクターであるオリバー・バーナム氏が売買契約を済ませてしまっていた。和歌山では野ざらしになっていた戦車は風雨で相当劣化が進み、ほとんど錆びた鉄の塊と化していた。それでも買取り価格は800万円ほどだったという。
遠くイギリスに渡ってしまった戦車を取り戻そうにも、小林さんには伝手がなかった。再び小林さんと戦車を結び合わせたのは、運命のいたずらとしか言えないような偶然だった。
「買い逃してから数年たったとき、仕事の関係でオランダに行くことがあったんです。ガイドの女性と話していると、夫が外交官という話題になりました。そして、つい数日前にイギリス人の戦車コレクターに会ったというじゃないですか。もしかして、と『その人はオリバー・バーナムさんですか?』と聞いたら『何で知ってるの?』と。こんな偶然があるのかと驚きました。さっそく連絡先を教えてもらって、バーナム氏とのメールのやり取りが始まったのですが、当初は『戦車を日本に返して欲しい』『嫌だ』という不毛なやり取りの連続でした」