小学生の15人に1人が「家族の世話」を担い、社会問題として顕在化してきたヤングケアラー。メディアでは身体的な疾患や障害をもつ家族の介護をする子どもがクローズアップされることが多いが、実際には、精神疾患の母親をケアするケースも多い。介護や家事労働だけが「ケア」ではないのだ。
ここでは、ヤングケアラー経験者たちの言葉に丁寧に耳を傾け、その実態を記した大阪大学人間科学研究科教授・村上靖彦氏の著書『「ヤングケアラー」とは誰か 家族を“気づかう”子どもたちの孤立 』(朝日新聞出版)より一部を抜粋してお届けする。(全2回の1回目/2回目に続く)
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兄のてんかん発作
麻衣さん 兄が長期脳死で死んでるんですけど、それでそのときの(父がつけた)記録がこれくらいノート30冊。それで、うち、母親が看護師だったので(……)3年8カ月生きて、52日間は自宅でも看たんです。
(……)テレビゲームをやっていて、光過敏性てんかんっていうのの発作でなったんです。それで、脳に酸素が行かなくなっちゃって、かな。それで心停止後の蘇生からの脳死なので、だから臓器移植うんぬんみたいな話にはすぐにはならなかったんですけど、多臓器不全っていうのが最初言われてたので。
私自身も光過敏性てんかんなんですよ。その後分かって、だからそれも微妙で。兄貴のことなければ、私は今も薬を飲んでて発作を防いでいるし、いろいろ葛藤して生きているから、『だけど逆になった可能性も絶対あったし』とか思ってて。
ここでは、意識のない兄とともに子ども時代を過ごした麻衣さんの語りを分析する。長期脳死状態の家族へのケアは特異なものかもしれない。しかし麻衣さんが経験する孤独はまさにヤングケアラーがしばしば経験するものであり、孤独の背景にある複雑な事情は、孤立こそがヤングケアラーの困難の出発点にあるという本書の意図を明瞭に示してくれる。
麻衣さんは30代の女性で現在は夫と3人の息子と暮らしている。11歳のときに2歳年上の兄がてんかんの発作で倒れ、それから3年8カ月後、麻衣さんが14歳のときに亡くなった。搬送先から高度な医療を求めてある医大病院に転院したが、両親は病院で看病し続けたため、遠くにあった医大へは当時同居していた父方の祖父が麻衣さんの送り迎えをしていた。その後、地元で手厚い医療を提供できる最初の搬送先の病院に転院した。退院し3カ月弱は自宅で看病していたが、再度地元の病院に入院し、亡くなっている。
お話は2回伺っている。2回目はオンラインでの2時間強のインタビューだった。1回目の語りはインタビューではなく、6人が参加するある研究会でのものだった(録音の許可はいただいていた)。近況をみなが語り、3人目が私、4人目が麻衣さんだった。彼女は近況報告もなく唐突に、私の著書『子どもたちがつくる町 大阪・西成の子育て支援』(世界思想社、2021)のなかで性的虐待を受けた少女が発する「全部、血替えて」というセリフに託しながら、自分自身の子ども時代の兄の記憶について語り始めた。私以外はどなたも一言も口をはさむことがないまま、ゆっくりした口調で20分強話し続けた。
つまり私に向けてこの話題を語ることを意図して、この研究会にいらしたようだった。それゆえある程度インタビューのような語りになっている。