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脳死は人為的に作られた「死」

 さて冒頭ですでに「だけど逆になった可能性も絶対あったし」と、兄が麻衣さん自身の身代わりであるという意識を語っている。兄が麻衣さんの代わりになり、そして麻衣さんもまた兄の代わりになる、という両方向の身代わりである。

 兄は1回心停止をしたということもあり、臓器移植の適応とされなかった。そのため脳死判定は受けていないのだが、当初は主治医の判断でも脳死状態と言える状態だった。つまり生死について非常にあいまいな状況である。

 もし延命治療を施ほどこしていなかったら兄はすぐに亡くなっていたと思われるが、両親の強い希望で、もともとの搬送先に転院し手厚い医療が施された。

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麻衣さん 母親はもう多分ちょっと錯乱してて、後から聞いたんですけど、本当に病院から飛び降りようとしたりとかしてたらしく。

 

 父親はなんかちょっとエキセントリックなやつで、「絶対死なねえから」みたいな感じで、「あいつ生きてるから」みたいな感じで、「生き返るんだから」みたいな、「あいつ生きようとしてるし」みたいな感じな人で、何の根拠もないんですけど、別に。

 母はここでは「錯乱」し自死を図っている。このあと泣く場面が登場するように、看護師だった母は悲嘆の傾向あるいは罪悪感が強い。

 教師だった父は母とは対照的な反応をする。「父親はなんかちょっとエキセントリックなやつで、『絶対死なねえから』みたいな感じ」と、冒頭でユーモラスに聞こえる父親の描写があった。父親は「生きようとしてるし」と兄の回復を信じる実現不可能な〈幻想〉を口にしている。

 脳死は「臓器移植判定」のために人為的に作られた「死」である。そもそも医療の発達で心肺を含む全身状態の管理ができるようになったことで生まれた状態であり、移植をすることがなければ意味を持たない概念だ。つまり医療技術と法律によって作られた「死」である。

 長期脳死の子どもを育てる人々のドキュメンタリーもあり、目の前に横たわる体が生きていると家族が感じることは自然であり、麻衣さん自身も兄が「生きている」と感じている。ところが父は、単に「生きている」だけでなく「生きようとしてる」という能動的な意志を、意識のない兄について半ば願い、半ば確信するのだ。

 

写真はイメージ ©iStock.com

「兄の姿」への怖さ

麻衣さん なんか難しくて。本当に一番最後(兄が発作を起こす前に)、最終30分、15分、20分、30分前に会ったのが私、会ったんですよ、家の近くで。それで仲むつまじいきょうだいとかじゃなくて、悪口言い合うようなきょうだいだったので、会って「何だおまえ、あっち行け」みたいなこと言って、ぎりぎりまで元気だったので。

 

 病院着いて、(……)見た目は。ショッキングな見た目に最初はなるので、特にもともと健常だというわけで。でも全然、何の抵抗もなく触れたり、声掛けたり、こうやって顔近づけて、「おい」みたいな、みんなそんな感じで。

 

 私は本当は、それは怖かったんですよ。怖いし、目もやっぱり瞳孔(どうこう)も開いて、目がこうなっちゃってるし。「ほら、麻衣も話せ」とか、「声掛けろ」とかって言われても、なるべく動揺を隠すようにして「かっちゃん、かっちゃん」とかって言って、やったんですけど、もう怖くて。帰ったら寝られないですよね。なんかもう寝られないし。

 語りで繰り返されるのが、脳死状態にあった兄の描写である。死んだかもしれない兄の「生」について、11歳だった麻衣さんの「怖い気持ち」が何度も語られる。1回目の語りで7回、2回目のインタビューで19回、「怖い」が登場した。