2006年2月のトリノ五輪。女子フィギュアスケートで荒川静香は日本人初の金メダリストとなった。以来、続々と五輪や世界選手権のメダリストが誕生している。ジャーナリストの吉井妙子氏が見た、先駆者としての快挙を可能にした荒川静香のメンタリティとは。(「文藝春秋」2010年9月号より。肩書・年齢等は記事掲載時のまま)
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電車で「あ、イナバウアーの人だ」
「電車に乗ると、今でも『あ、イナバウアーの人だ』と囁かれることがあります。咄嗟に私の名前は出てこなくても、『イナバウアー』だけは浮かぶみたいですね」
荒川静香は、そう言って苦笑いする。
トリノ五輪の金メダル獲得は、私たち日本人にとっては衝撃的ともいえる快挙だった。フィギュアスケート界では長い間、海外勢に比べ容姿に劣る日本人が頂点に立つことは厳しいとされてきた。フィギュアスケーターはアスリート性もさることながら、氷上の美や芸術性も求められ、表現力に乏しい日本人選手には不向きな競技だ。事実、トリプルアクセルという圧倒的な技を武器にしていた伊藤みどりでさえ、アルベールビル五輪で銀メダルを獲るのがやっと。日本人の限界を突きつけられた思いだった。
なぜ24歳の細腕で、荒川は歴史の重い扉をこじ開けることができたのか。
トリノ五輪の競技初日、SP(ショートプログラム)で演技開始のポーズをとった荒川は、静止しながらコホンと小さな咳をした。会場をぎっしり埋めた観客が固唾を呑んで氷上の舞姫を凝視する、選手にとっては血が逆流するほど緊張する場面で、生理現象も起こらないはずが、余裕の咳払い。私は彼女のそんな仕草を見ながら、「この人はまったく緊張していない」と確信した。
試合直前にのんびりウインドーショッピング
数日前には、選手村の近くのショッピングモールで一般客に紛れてのんびりとウインドーショッピングしている荒川を二度ほど目撃していた。試合直前の大事な時期に何をやっているのか、と訝る思いも湧いた。五輪で多くの選手に接してきたが、これほどのんびり五輪を迎える選手は初めてだった。
大会後、彼女はにんまりしながら言った。
「五輪前に考えられることをすべてやってきたので、今さらじたばたしてもしょうがない。成績に関係なく五輪後は引退することになるだろうから、五輪の雰囲気を目に焼き付けようと、1人で散策していたんです」
しかも彼女は、大会2カ月前にコーチを変え、1カ月前にSPやフリーの曲を変更するというとんでもない行動も取っていた。大会直前のコーチ変更はそれまでの取り組みをゼロにするに等しく、曲を変えるのは、ドラマのセリフを即興で繋いでいくようなもの。無謀というしかない。
それまでのコーチは、何人もの金メダリストを育ててきたロシアのタチアナ・タラソワ。彼女の指導の下で、荒川は2004年の世界選手権で金メダルも獲得していた。