「超えられる気がしませんでしたね」
「千鳥さんのネタは、クイズの選択問題の候補を100個ぐらい、延々上げていくネタでした。わけわからないんですけど、めちゃくちゃおもしろい。笑い飯さんは歴史民俗博物館のネタでしたね。『ええ土ーっ!』ってやつです」
後者は、笑い飯が第3回大会で披露し、今や伝説となっている「奈良県立歴史民俗博物館」と呼ばれるネタだ。笑い飯は互いにボケ合戦をする「ダブルボケ」というスタイルを確立し、大ブームを巻き起こした。確かに、千鳥も笑い飯も発想がぶっ飛んでいた。
プラス・マイナスは結成4年目、06年に初めてM-1の準決勝まで駒を進めた。それから09年まで4年連続で準決勝に勝ち進んだが、決勝の舞台は踏めなかった。岩橋は半ば諦めていた。
「笑い飯さんと千鳥さんが決勝進出の基準になった。なので、自分たちが準決勝の壁を超えられる気がしませんでしたね」
いったん休止していたM-1が15年に復活してからは、プラス・マイナスは3年連続で準々決勝敗退。準決勝にすら進めなくなってしまった。M-1を意識するあまりプラス・マイナスは迷走していた。福徳はそんな二人を見て歯がゆさを覚えていた。
「プラマイらしい漫才をせんと、ちょっとひねったような、M-1に媚を売ってるような漫才ばっかりやってた。もっとプラマイらしい漫才せえよ言うても、通してくれへんもん、って。実際、そういう面は否定できないんですけどね」
その間、コントが本職であるはずのジャルジャルは決勝の常連となり、銀シャリは16年に王者となった。岩橋が声を落とす。
「劣等感は半端なかったですね。毎日、漫才してて、漫才で飯を食ってるのに、それでも漫才の大会で評価されないというのは、やっぱりきつかった」
M-1の女神に愛されるコンビと、嫌われるコンビ。銀シャリの橋本は、その二つに分かれるという。
「僕は05年に今の相方と組んで、2年目にすぐ準決勝にいった。M-1のお客さんには愛されてる感じがあった。やりやすいな、と。プラマイはいいところまでいくけど、なかなか壁を崩せず、どんどん苦手意識が強くなっていったんやろな。M-1になるとフォームを崩す感じがあったもんな」
岩橋は完全に自信を喪失していた。