1ページ目から読む
2/4ページ目

「矢沢のロックは死んだ」と酷評されても続けた新サウンド開拓

 矢沢は1972年にキャロルのベース兼ボーカルとしてデビューし、『ファンキー・モンキー・ベイビー』などを世に送り出した。氷室京介や藤井フミヤなど矢沢に憧れて音楽を始めたアーティストは枚挙に暇がない。キャロルはわずか3年足らずの活動で、1975年4月に解散。矢沢はバンドを存続したいと願っていたが、ソロに転身せざるを得なくなった。

 解散ライブから20日後、矢沢はロサンゼルスに飛んだ。『ゴッドファーザー』などの映画音楽で知られるトム・マックをプロデューサーに迎え、デビュー前から暖めていたバラードであるシングル『アイ・ラヴ・ユー、OK』、アルバム『I LOVE YOU,OK』を完成させた。しかし、世間の反応は芳しくなかった。

〈その頃に何が来た? ファンレターで非難の投書がガンガンよ。「矢沢のロックは死んだ」。マスコミ。もう矢沢は終った。矢沢は取材しない……〉(1978年8月13日号 週刊明星)

ADVERTISEMENT

 ソロ第1弾は、既存ファンやマスコミに酷評された。彼らはキャロルのようなロック調を求めていたからだ。それでも、矢沢は目に見えるネガティブな反応に飛び付かなかった。己の信じる道を進み、潜在的な需要を掘り起こした。『I LOVE YOU,OK』『A Day』『ドアを開けろ』『ゴールドラッシュ』とアルバムを発売するたびに売上枚数は更新され、批判は収束していった。

〈あの当時でいうと、キャロルを封印するから矢沢永吉はカッコいいんですよ。封印するぐらいじゃなきゃダメ。これ音楽だけじゃないかもしれないよ? どんなビジネスでも理由があってチェンジをしなきゃいけない時に、水が漏れるようにちょこちょこ前のものを引きずっていくことで成功なんかするわけがないですよ〉(2009年8月号 ロッキング・オン・ジャパン)

©時事通信社

 矢沢はアーティストに最も必要な先見の明を持っていた。もし“お客様の意見”を聞き入れてバンド時代と同じような曲ばかりを続けていたら、一部の固定層だけが残って、新規のファンは獲得できず、ロック歌手初の武道館公演には辿り着けなかっただろう。

〈前のアルバムをどっかで越えなくちゃ、ふっきらなくちゃと思う。“矢沢はアルバムを出すたびに、何か新しいテーマを突きつけてくる”そう思われなくては意味ないでしょ〉(1978年7月30日号 サンデー毎日)