日本における大衆麺の歴史でほとんど話題にのぼらなかった麺がある。米の麺である。「米粉」と書いて「ビーフン」と読むぐらい馴染みがなかったわけである。
これは年貢として粒食の米が貨幣のように扱われてきたこと、粉にするなど滅相もないといった雰囲気さえあったことなど、旧来の価値観が未だに残っていることが背景にあると思われる。
ところが、日暮里で「蕎麦切り 艶(えん)」を営業し、「米切り」なる麺を開発した達人がいる。有限会社明日(めいじつ)代表の上中治明さん(60歳)である。上中さんは「米切り」という登録商標も申請している。
そばの達人である上中さんがなぜ「米切り」に導かれていったのか。それには深い経緯と熟考があったようだ。さっそく日暮里の店に伺って話を聞くことにした。
「蕎麦切り 艶」の誕生史
「蕎麦切り 艶」はJR日暮里駅を東側に降りて、鶯谷方向に戻るように道なりに進んだ道路左側に立地している。徒歩5分位。落ち着いた外観で「米切り」の幟(のぼり)が揺れている。入口にも「お米100%の麺、グルテンフリー、米肉せいろ、米肉なん」などの文字が躍る。店に入ると上中さんが笑顔で迎えてくれた。
ここでざっと「蕎麦切り 艶」の誕生史を振り返ってみることにしよう。なかなか面白い。上中さんが日暮里でそば屋「蕎麦切り 艶」を始めたのはいまから21年前の平成14(2002)年のことである。