会社をやめて1年数か月後に海燕新人文学賞を受賞
――それまで小説は書いていないですよね。そこから1年数か月後には「午後の時間割」(『少年と少女のポルカ』所収、1996年ベネッセコーポレーション刊/のち講談社文庫)で海燕新人文学賞を受賞されてますよね。
藤野 3年くらいで駄目だったらまた何か考えなきゃ、とは思っていました。
――書いてみたら面白かったですか、小説は。
藤野 そうですね。もともと文芸誌も読んでいて、純文学も好きだったし。そういう意味では自分がどういう小説が好きでどういうふうに書けばいいのかは知っていたんです。たぶん書けるとしたらそういう作品になるんだろうなとも思っていたので。たとえば、推理小説を書こうとは思わなかったです。推理ドラマを見ていても推理をしたことがないし「犯人はこいつだ」と言われたら「そうか」と思い、「実は違った」と言われたら「あ、違った」と思って見ているので。
ピーコさんの番組と阿川さんの対談だけみんなが「それは出ろ」
――最初から『海燕』に応募したのですか。
藤野 『海燕』は一年目は間に合わなくて、最初は『文學界』ですね。その頃は半年に1回募集があったので目標にしやすくて。で、翌年は『海燕』にも応募しました。それで受賞したからみんなにご馳走しようとしたらアダっちに「まだ早い」と言われて。ただ受かっただけで、小説家になるのはこれからだから、って。
今回いろいろ取材していただいた中で、通信社の方がこれに出てくるプロモーション事務所に行ったことがあると言っていて、いろいろ繋がるなと思って面白かったです。
――いろんなテレビ番組に出るように言ってくるところですね。
藤野 夜の、いかにもなバラエティー番組とかね。向き不向きで言うと絶対不向きなのに。みんなも「やめとけ」って言うので「やめておきます」と断りました。芥川賞の時も、私は優柔不断で自分で決められないから「こういう出演依頼きたけどどうしよう」と言うとみんな「何訊かれるか分からないからやめときなよ」って言うのが、ピーコさんの時だけは「それは出ろ」って。自分たちが会いたいだけじゃん、っていう(笑)。結局それは当時エッちゃんがやっていたお店にピーコさんに来てもらって、私とピーコさんが話している後ろにカウンターがあって、そこにエッちゃんやらアダっちやら3、4人並んでて。みんな聞きながら肩が笑ってました。あともうひとつは、『週刊文春』の阿川佐和子さんの対談もみんなに「出ろ」って言われて出ました。