大きな事件がある時に、冷静に違うところを見ている
――今回は、ある程度ストーリーは決まっているものを書かれたわけですが。
藤野 どうなるかは自分では知っているわけですから、そうですよね。そこをどれだけのテンションで書くかっていうのを考えました。普段もちゃんと小説を終わらせないといけないので、一応最後は考えたりすることが多いんです。そこまでどういう道筋で行けるのか、たどり着けなかったらどうしよう、というのはあります。
自伝的なものというのはこれで2つめですが、その2作で初めて自分に近い話を書いたかもしれません。いつもは自分とはちょっと距離があるような主人公を書くので。三人称で書くことが多かったのは、たぶん一人称で書くのが苦手だったんだと思います。主人公との距離の取り方が難しくて。小説なんで、その人になりきって書けばいいんでしょうけれど、なんとなく、そこに違和感があるんだと思います。
もしも「もっと内面さらけ出さないと淡々としすぎて読者が感情移入できない」と言われたらそうかなと反省はするんですが、たぶん私の中ではこういう形でないと出せなかったんだろうとは思います。自分の中では思いっきり出したつもりです。
――決してハイテンションではないけれど、でも楽しかったですよ。クスクス笑いながら読みました。一定のトーンを保っているのは他の作品にも通じますよね。
藤野 そうですね。大きな事件がある時に、冷静に違う部分を見ているというところがありますね。たぶん普段から、自分がそういう人間なんだと思うんです。そればっかり憶えているから小ネタばっかり書いてしまうと思います。大きな出来事は逆に大きすぎて見えないのかもしれません。
――日常の光景を書く方、という印象です。
藤野 自分の中では、日常のちょっとした浮き沈みが重要だったりするので、すぐにそこに意識がいってしまいますね。やっぱり毎日の中での、これは気になるし、ということを書きたくなります。ただ、細かいところはすっ飛ばして大きいことを書く方はいらっしゃるので、私は地味な方でもいいかな、と。これも向き不向きなんだろうと思います。
『文學界』に書いた新作短編の主人公は87歳、歴代最年長
――それと、10代の主人公を書かれることも多いですよね。『D菩薩峠漫研夏合宿』はもちろん、『ルート225』(02年理論社刊/のち新潮文庫)とか、『中等部超能力戦争』(07年刊/のち双葉文庫)とか、『時穴みみか』(15年講談社刊)とか……。
藤野 ああ、どうしてでしょうね。大人げないところがあるので、若い主人公のほうが話を作りやすいとは思うんですけれど。実際にそんなに若い人はもう周りにはいなくなってきて、なかなか実感としては若い人のことが分からなかったりするんです。ただ、時代が変わっても、変わらない部分もあるんだろうなとは思っています。
自分も若い時代にそんなに若い人に馴染んでいたわけでもないし、今、たとえば同世代の人の共感を呼ぶ作品が書けるのかといえば、また難しいのかもしれませんし。若い人の話は書いていて楽しいというのもありますね。エネルギーをもらいたいというのもありますし。将来の不安はあっても、そのぶん未来の可能性だってありますからね。
――家族の物語『親子三代、犬一匹』(09年朝日新聞出版刊)も、小学生の男の子のバレンタインデーの心情がすごく可愛いと思いましたし。『ベジタブルハイツ物語』(05年刊/のち光文社文庫)の登場人物の女の子を主人公にした『さやかの季節』(07年光文社刊)で成長を描いてみたりとか。その一方で、『主婦と恋愛』(06年刊/のち小学館文庫)のようなサッカー好きの主婦の日常を書いた作品があったり。
藤野 あ、先月ちょうど『文學界』に短篇をひとつ書いたんですが、それは87歳の老人が散歩しながら昔のことを思い出している話なんです。今までで最年長の主人公かもしれません。前に実はその老人がもうちょっと若かった時代を主人公にして「散骨と密葬」という短篇を書いたことがあって(『願い』所収、10年講談社刊)。80歳近い男が、うちは子どもが全然結婚していないし、自分が死んだ時のことを考えて、散骨と密葬でいいか、って奥さんと相談するという話を書いたことがあるんです。その10年後くらいになって、さらに状況が過酷になっているという話です。多少設定は変わっているんですけれど、その人物に起こったその後のこととかを含めて書いています。
――自伝的小説も2冊書いたし、新作短篇では描く主人公の年齢層を広げましたし……。今後書くものも変わっていきそうですね。展望といいますと。
藤野 あまり先を考えていないので、展望はないんです。先を考えるより、何か、書けるかなって思うことを見つけておくほうが多いですね。これなら書けるかな、というものをピックアップしているんです。