(前篇より続く)
犯罪者にも会ったし、怖い体験もした。取材を通して人間を知ることが出来た
――さきほど19歳の時から小説を書いているとのことでしたが、きっかけは藤原伊織さんの『テロリストのパラソル』(1995年刊/のち講談社文庫、角川文庫、文春文庫)だったんですよね?
塩田 そうですね。それまでは漫才とか演劇という形で、エンターテインメントを作って生きていくことを考えていて、小説がそれにあたるという発想がなかったんですよね。でも、教習所に通っている時にたまたま待ち時間に『テロリストのパラソル』を読んで、時間を忘れてしまって。時間を奪ったということのすごさと、持ち運びがしやすいことを考えたら、もう無敵やないかと思いました。そこでもうその日から小説を書き始めたという。
――ただ、卒業後は神戸新聞社に入って記者になられたんですよね。
塩田 もう詐欺師みたいなもんですよ。19歳の時から小説家になりたくて、それを隠して入社していますからね。小説のために、記者として経験したことを全部ノートにつけていました。それはいまだに使っています。この前、神戸新聞の、めちゃくちゃお世話になった人に講演せえと言われたので講演して、その後で一緒に飲んだんです。もうめっちゃくちゃ怖くて、返事しても怒られるような人だったんですけれど、「よう頑張ってんな」と言ってもらえました。でもお酒が深くなったら「お前なんかまだまだじゃ」みたいなこと言っていました(笑)。ありがたかったです。
――新聞記者8年目に、『盤上のアルファ』(11年刊/のち講談社文庫)で小説現代長編新人賞を受賞してデビューが決まりますが、将棋の三段リーグの編入試験を題材にしたのは、将棋担当になった経験があったからですし、その後も記者の主人公も書かれています。記者の経験は大きかったですね。
塩田 新聞記者になっていなかったら作家になれていなかったかもしれないというくらい、本当に貴重な勉強の場でした。取材を通して、人間を知ることが出来たんですよね。いろんな人に会いましたから。犯罪者にも会いましたし、怖い体験もいっぱいしました。インタビューしてみて、この人立派やなと思えることもたくさんあったし。事件やったり、裁判やったり、テレビやったり、クラシックやったり、将棋やったりと、本当に広い世界を見せてもらえました。最高の学校でした。
最初は自分の頭にあるイメージに原稿が追いつかなくて苦しかった
――10年で辞めるというのは決めていたのでしょうか。何年までに何をして、などと目標を立てていたのですか。
塩田 もちろん逆算しています。記者生活10年までに賞を獲るというのもそのひとつでした。落選している時期は苦しくて仕方なかったですね。本当に書けなかった。自分の頭にあるイメージに原稿が追いつかないんです。こんなに面白いことを思いついているのに、自分の書いたものはなんでこんなにしょうもない物語になるんやろう、みたいな。その差がなかなか埋まらなくて、19歳から書いて31歳で賞を獲るまで、12年かかりました。でも、『盤上のアルファ』を書いている時はプロットを超えてどんどん会話が出てきて、登場人物が活き活きして、何よりも将棋というものを通して人間の面白さを書くという軸ができたんですよ。
――それまでお笑いとか、楽しいものを追求されていたわけですよね。『女神のタクト』(11年刊/のち講談社文庫)のようなコミカルなものもありますが、文庫化したばかりの『雪の香り』(14年刊/のち文春文庫)など、切ないものも多いですよね。小説となるとまた追求するものが違うのかな、と。
塩田 人間に興味があるというのが一番大きいと思いますね。人間は多面的な生き物なので。笑わせるとなると一企画の相当面白いアイデアがあればそれで引っ張れると思うんですけれど、それは滅多にないですし。基本的に、まず人間を書くことを目指したというのが、『罪の声』までの第一段階の目標だったんです。