1978年に3人兄妹の末っ子として誕生したMISIAが、離島の対馬へ渡ったのは5歳の頃。「離島でも最新の医療を受けられる体制を作りたい」という父たっての希望で、家族で移住した。
「幼い頃の夢は保育士」離島病院の保育所をお手伝い
「MISIAさんのご両親はともに、長崎県離島医療圏組合いづはら病院に赴任。年の離れたお兄さんとお姉さんが中学卒業とともに県外の高校へ進学すると、MISIAさんは兄妹でたった一人島に残ることになった。院長を務めるお父さんはもちろん、お母さんも島で唯一の小児科医だったので、急患があれば夜中でも駆けつけなければならない。夜中に家を出るお母さんを、寝たふりをして見送ることもあったようです」
そんなMISIAの幼いころの夢は意外にも「保育士」だった。
「MISIAさんのお母さんは、働く医師や看護師のためにと、当時は珍しい“院内保育”を作った。ご自身の経験から、仕事と子育ての両立の難しさを分かっていたからでしょう。MISIAさんは子供が大好きで、夏休みになると病院の保育所を手伝いにきていたそうです。こんな保育園を作りたいという設計図や、女の子の制服のデザインを描いて、夢を膨らませていたとか」
しかしある音楽との出会いが、MISIAの人生を一変させることになる。
MISIAが衝撃を受けた「ゴスペルの一節」
「MISIAさん家族は音楽一家でもあります。ご両親は学生結婚しているのですが、その出会いのきっかけとなったのがコーラスサークルだったこともあり、いつも家には音楽が溢れていたそうです。お父さんはジャズ、お母さんはカーペンターズやダイアナ・ロスといった洋楽ポップス、お姉さんは邦楽ポップスなど、家族それぞれが好きな曲を聞いたり、家族みんなで輪唱ごっこをしたりして楽しんでいた。MISIAさんも歌が大好きで登下校時には大自然の中で反響するくらい大声で歌っていたそうです」
そして出会ったのが“ある一節”だ。
「9歳から対馬の合唱団にも所属していたそうですが、あるときゴスペルミュージカル『Mama' I Want to Sing』の一節がコマーシャルで流れているのを聞いて衝撃を受け、『歌手になる』と宣言。ご家族もレッスン先を探すなどして、彼女の夢を応援したそうです」
大きな夢を抱いたMISIAは、中学3年生で島を出て、大学生の姉が暮らす都会、福岡へ。両親の「本格的な活動は大学から」という希望もあり、高校時代はボーカルレッスンを受ける日々を送った。