こうした中心市街地を取り巻くように、静岡の町は延々と続く。お城のお堀沿いには文化会館や教育機関など公的な施設が建ち並び、その外側には商店街を備える大通り。さらに外には住宅地も隣接し、例に漏れずに真新しいマンションもニョキニョキと生えている。
駅前の一角、国道1号を挟んだ静岡駅の斜向かいには、浮月楼という木々に覆われた古めかしい建物があるが、こちらはかつて徳川慶喜が隠居の地として暮らした屋敷跡だという。将棋ファンにはA級順位戦最終対局の舞台としても知られている。
市街地の周りに住宅地という、これはごく普通といっていい町の構造は、駅の南側に出ても変わらない。静岡駅の南側、つまり新幹線側はまっすぐ南東に延びる石田街道という大通りがあり、駅周辺には商業ビルやホテルなども目立つ。
が、少し離れればごくごく普通の住宅地に様変わり。単身者向けとおぼしき小さなマンションもあるようだ。静岡駅という県都のターミナルから徒歩数分の距離で、たぶん東京都心などと比べたらとんでもなくお安いお家賃で暮らすことができる……。そう考えれば、静岡駅のポテンシャルはなかなかのものだ。
“必ず通過する”町「静岡」の力
そして静岡駅南口、石田街道をずーっと下ってゆくと、歴史の教科書にもきまって登場する登呂遺跡にたどり着く。弥生時代の大規模な稲作集落の跡だ。家康さんの時代よりもずっと昔、遥か古代の弥生時代から、静岡にはたくさんの人が暮らしていた。
それに、家康さんにしたってなぜ大御所として静岡、この駿府に暮らしたか。静岡は、江戸と京・大坂を結ぶ大動脈・東海道の道筋を抑える枢要の地。万が一、誰かが江戸に攻め入ろうとするならば、決まって静岡を通らねばならない。
事実、西郷隆盛率いる新政府軍の主力は江戸への総攻撃に向けて東海道を下ってやってきた。そこでなんとかそれを食い止めようと、勝海舟の意を汲んだ幕臣の山岡鉄舟が西郷隆盛と談判したのは、静岡の地だ。
すなわち、静岡は日本の東西を結ぶ大動脈にとって、避けては通れない町なのである。“通過するだけ”といってしまえばそれだけだ。が、必ずしもそれは卑下するようなことではなくて、“必ず通過する”町であったことがいまの静岡を形作ったといっていい。新幹線「のぞみ」の静岡スルーは、決して静岡が格下だから、などではないのである。
そういえば、リニアを巡って静岡県知事があれこれ気勢を上げている。それもまた、静岡が“通過する”場所だからこその問題なのだ。静岡駅の自由通路、新幹線の改札前には、「リニアが通れば静岡駅に停まる新幹線が増えて便利になります」などという、JR東海さんの市民に向けたアピールが張り出されていた。未来の静岡駅、果たしてどれだけの列車が停まるようになっているのだろうか……。
記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。次のページでぜひご覧ください。