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「外部の介入」に出会えた人、出会えない人

「金がないこと」で常に神経をすり減らし、毎日のように私の目の前で「死にたい」と泣いていた母親の姿を子供の頃から見てきたこともあり、私は高3の夏にして初めて「大学に進学したい」と強く思うようになった。

 しかしやはり母親は私の希望に激しく反発し、あんたが働いてくれないとこの家はどうなるのよ、とひたすら私を責めた。最終的に機関保証で奨学金を借り入れて大学に行くことを認めてくれたものの、必ず実家から通える範囲の学校に行くこと、奨学金は母親が管理して家族の生活費にも補填すること、受験料を節約するために最低限の試験しか受けさせないこと、浪人は絶対に許されないことなど、条件は多かった。

 奨学金の借り入れ総額は400万円以上になったが、あと4年間だけ暴力に耐えれば、ようやく実家から解放されて自由になれることを思えばそれくらいなんともなかった(編注:筆者は幼少期から20代までの十数年間、兄からの家庭内暴力に苦しんでいた)。

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 進路相談役の教師が説得を試みてくれなければ、私は自分に大学進学の選択肢があることなどつゆ知らず、あの家のために身を粉にして働いて暮らしていただろうと思う。そういう意味で彼は私の人生を変えてくれた恩人であるが、みんながみんな彼のような人に出会えるわけではない。

©️iStock.com

受け継がれてゆく「貧困」

 幼馴染の同級生の家庭もまた、裕福ではなかった。中学に上がる頃に両親が離婚し、経済的な事情で高校を中退したあとは、地元の「不良仲間」が紹介してくれた建設会社に就職したのだという。その建設会社は地元で彼のような少年たちの受け皿にもなっており、前科があっても学歴がなくても雇ってくれるというので、彼以外にもその会社で働いている顔なじみが常に4~5人いるような状態だった。

 経済学の用語である「貧困の悪循環」は、一度入ってしまうと外部の介入がないかぎり貧困が継続することを指し、生まれながらにして多くのディスアドバンテージを抱えているために循環プロセスに乗るのが困難である。そして個人の力でこの悪循環から抜け出すことは実質不可能であることを説明している。

 高等教育が「介入してくれる誰かに出会えるかどうか」という個人の運まかせになっている現状は、「教育機会の平等」からあまりにもほど遠いと言わざるを得ない。幸いその誰かに出会えたとしても、数百万円の借金を背負わなくてはスタートラインに立つことすらできないのだから、日本の貧困問題が少しも解決に向かわないのも当然ではないか。