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「私の2年間の党生活は何よりも私の青春を賭した自己形成の試みであった。(中略)だが凡ては今醜悪なマキャベリズムの触手の絡み合ふ中に無限の汚辱に泥塗られつつ終幕した」(※1)

「2年間の党生活の後に去り難く私の頭に残ったのは何よりも戦慄するばかりのこの政治といふものの醜悪さである」(※2)

「醜悪なマキャベリズムの触手」「無限の汚辱」など、党を唾棄するかのような激しい言葉の数々。ここに至るまでの間に、渡辺と党の間に何があったのだろうか。

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天皇制打倒のために

 戦前は非合法とされ激しい弾圧を受けていた日本共産党は、終戦後に治安維持法撤廃により合法政党として再建された。この日本共産党の活動に、渡辺は自らの大学時代を捧げるかのように没頭した。入党の理由について、渡辺は次のように語る。

「戦争中、『天皇陛下のために死ね』とか、『天皇陛下万歳』とか、日常茶飯事のようにやらされていた。二等兵で引っ張られて、あの地獄のような軍隊へ行った。それというのも、とにかく天皇制、全体主義が悪いからだ。だから戦争が終わって生き残ったら、天皇制を倒さないといかんと真面目に考えていた。天皇制を潰して、共和国にしようと思った。

 それで当時、除隊になって東大へ戻ったら、いろいろ壁にビラが張ってある。全部天皇制護持だ。天皇制打倒と書いたビラは、共産党だけだったね。それで、共産党に入ろうと思って、終戦の年の暮れかな、共産党本部のある代々木に行って、共産党に入ったわけですよ」

 戦後、共産党の影響力は、戦前と比べて著しく増大した。戦前に最大でも600人程度しかいなかった党員数は、渡辺が入党した頃には7000人近くにまで増加していた(※3)。とりわけ体制変革の理想を持つ進歩的学生の中には、共産主義に憧憬を抱く者が少なくなかった。

 日本政治外交史が専門で、共産党の歴史を近著で実証的に分析した一橋大学教授の中北浩爾は、終戦直後に共産主義が放っていた魅力について、次のように指摘する。