党派抗争から学んだ権力掌握術
その後渡辺は、新たな組織「東大新人会」を立ち上げる。そして「党の規律よりも、個人の主体性が優先されるべき」と主張し、「主体性論争」と呼ばれる議論を巻き起こした。
渡辺が起草した会の綱領には「新しい人間性の発展と、主体性の確立を目指し、合理的且平和的な社会の改造を推進」し、「公式的極左主義を克服し社会正義と真理の旗の下に結集する」と明記されている(※7)。そこには個人の人間性と主体性を重視する渡辺の思想が反映されていた。
一方、党本部は渡辺の活動を「分派活動」として激しく非難する。その記録が、党大会の統制委員会報告に残っている。渡辺は名指しで「第2次共産党をつくるというような妄想的な考え」、「重大な規律違反」と糾弾された(※8)。そして渡辺は除名処分を下されたうえ、東大細胞は解散処分となった。
「党は『革命のためには命を捨ててもいい。死んでもいい』と教えながら、死んでもいいほどの新しい価値というのは何なんだ。何もないじゃないか。それで僕は疑問を持って批判を始めた。『現体制を倒しながら、共産党も倒す』と変な夢を持ったわ。ぼこぼこに逆批判された。それで除名を受けた」
戦争と軍隊への嫌悪から没頭し、自身の青春を捧げた共産党活動は、渡辺にとって苦い結末となった。しかし渡辺は党内の激しい抗争の経験から、後に読売新聞社内や言論界を上り詰める原動力となる、権力掌握術を体得したという。
「共産党細胞というものは、秘密の中核組織だね。それを元にして、1人が100人くらいを動かす。東大に学生が1万人くらいいたと思うが、それを動かす。100人ちょっとの新人会でひっかき回したね。1人が100人、200人という人間を動かして、1万、2万人というやつに影響を与える。これは集団指導技術というか、共産党で学んで非常に役に立ったね。その後、至るところで組織をつくり、至るところで多数を制する。そういう技術は共産党から学ぶものが非常に多かったね」
中北は、渡辺が権力掌握術として学んだ運動形態は、共産党が労働組合などの団体を動かすときに多用した戦術そのものであると指摘する。
「少数だけど結束している集団は全体を動かすことができます。共産党は、前衛政党が団体を通じて大衆を指導するという伝導ベルト論を持っていました。そして、労働組合などの大衆団体では、その内部に党員グループをつくり、その組織的な活動によって党の方針をその団体に受け入れさせていくフラクション活動が行われました。
会合が行われる前に、党員の参加者が協議して方針や段取りを決め、それに従って会議を回していく。それと同じような権力闘争を後に実践したのではないでしょうか。そうした少数者に対して、多数で無防備な人たちはひとたまりもないですよ」
共産党内での激しい党派抗争を原点に、後に政治記者として自民党内の熾烈な権力闘争や派閥抗争を冷徹に分析する渡辺の眼差しは、「政治の本質は友と敵の区別に基づく敵対関係の中に根源的に表われる」と喝破したドイツの政治学者カール・シュミットの政治観を彷彿とさせる(※9)。戦争を嫌悪し個人の自由を尊重する理想主義者の一面と、マキャヴェリズムを体現するかのような現実主義者の一面が同居する渡辺恒雄。共産党活動に没頭した青年時代には、その人物像が端的に凝縮されているように思える。
1 渡辺恒雄「東大細胞解散に関する手記」『胎動』1948年4月号、文化書院、51頁。
2 渡辺前掲「東大細胞解散に関する手記」54頁。
3 中北浩爾『日本共産党』中央公論新社、2022年、148頁。
4 作家・詩人としては「辻井喬」の筆名で活動。
5 1947年9月発生のカスリーン台風。関東地方の利根川流域において、死者1100人、家屋浸水30万戸以上などの甚大な被害をもたらした。
6 1947年2月11日付の手記。渡辺恒雄、御厨貴、伊藤隆、飯尾潤『渡辺恒雄回顧録』中央公論新社、2007年、705頁。
7 渡辺恒雄『君命も受けざる所あり』日本経済新聞出版社、2007年、68頁。
8 日本共産党中央委員会教育宣伝部編『日本共産党決定報告集』人民科学社、1949年、68頁。
9 C・シュミット著、田中浩、原田武雄訳『政治的なものの概念』未来社、1970年。
記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。