日本人の生のリズム
私はここで、徴兵制や開発独裁、民主化やドイツ型立憲主義が、いずれも不可避の中央集権化を伴っていたことを指摘しておかねばならない。坂野氏は「上からの工業化派」や「上からの民主化派」と名づけ、強制力をイメージしやすくしている。西洋文明の導入は、無論、アヘン戦争以降のアジア植民地化に対する危機意識からはじまったものだ。
福澤諭吉が『学問のすゝめ』において、貴賤上下の区別なく学問すべきこと、それは古典や漢詩をつくることを意味せず、算盤や天秤の使い方といった「実学」であること、実学を学ぶことで各人が国家に所属する日本人として応分の役割を担うことを求めたことを想起すればよい。学問は国民になるための必修科目なのであり、極東の島国は、総力を挙げて国際秩序に対応し、「国家」になる必要があった。西洋文明の模倣は、官民挙げて取り組むべき時代への処方箋なのであって、有無を言わさぬものだった。それはまるで、みずからの生活リズムについて、ある日突然、遅すぎると告げられるようなものだった。西洋の生活習慣こそ普遍的な「正しい」リズムなのであって、従わないことは「悪」なのである。
だが人は、本当にそうたやすくリズムを変えられるものなのだろうか。後に夏目漱石が、神経衰弱や、牛を真似て巨大化し破裂した蛙の例で描いたように、あまりにも急激な西洋化は、言いようのない疲労を日本人に与えたのではなかったか。
明治の富国強兵時には、この日本人の疲労を理解している者たちがいた。例えば西郷隆盛は、『南洲翁遺訓』において、人間の知恵を開発するということは、国を愛し、主君に忠誠を尽くし、親に孝行する心をつくるためだと言っている。今日からは古色蒼然に見えるこの言葉は、しかし次のように続くのである――見聞を広めようとして電信線をかけ、鉄道を敷設し、蒸気機関車をつくる。こうして人の注目を集めたとしても、なぜ、どうして電信・鉄道が必要なのかを考えず、むやみに外国の繁栄を羨んではならない、と。
つまり西郷は夥しく流入する複数の諸制度・価値観を前にして、取捨選択する独自の価値基準をもつことの必要性を訴えている。西洋文明のリズムは無条件に普遍的で正しい価値ではないのであって、優先順位をつけるためには、日本の国柄――「我国の本体を据ゑ」――をまずは自問自答することの必要性を説いたのである。
多くの日本人が、自身で過去を否定し西洋文明に飛びついた。一方で頑なに新文明の到来を拒絶し過去に閉じこもる者もいた。両極に見える彼らは、実は同じ行動原理で動いている。彼らは目の前の不安を直視せず、自分の正義観に閉じこもり眼を塞いでいるのだ。西洋文明との軋轢と葛藤から眼をそむけ、言葉を紡ぐことを放棄しているのと同じである。萩原朔太郎のように、日本人の喪失したものを意識できなかったのである。
骨太な明治人
興味深いのは、こうした多くの者たちとは別に、西郷隆盛の繊細な感受性を福澤諭吉・中江兆民・陸羯南・谷干城・頭山満など、ごく少数の者たちが共有していた事実である。今日では有名な彼らも、当時は異端少数派であった。彼らはふつう、福澤と兆民は左翼リベラルに、陸羯南や谷干城、頭山満は右翼反動に分類されるだろう。だが例えば中江兆民は、社会主義者の幸徳秋水を書生として寄宿させていたにもかかわらず、頭山満と意気投合し対ロシア主戦論を展開していた。ロシア非戦論者の伊藤博文を蛇蝎のごとく嫌っていたからである。ところが西南戦争の際に熊本城で西郷軍と対峙し、保守派の重鎮で鳴らした谷干城は、対ロシア非戦論で幸徳秋水と交流をもち、伊藤博文の側に立ったのである。これらの事実だけでも、政治的左右の分類が、骨太な明治人たちには通用しないことがわかるだろう。では彼らが保守しようとしたものとは何だったのか。
明治10年代以降の第二期、兆民や谷、陸羯南に共通していたのは、経済的自由主義に否定的なことであった。フランス留学を終えた兆民から見れば、西洋文明は人間を欲望する存在だと定義している。よりよい衣食を求め、欲望は無限に拡張していく。イギリス型の自由放任経済は各人が利益追求にのめり込むから、社会から紐帯が消え、人びとはバラバラになる。競争社会は常に他者との比較を強いてきて、心が荒んでしまう。これが兆民の時代診察であり、その西洋文明を内側から批判する思想家としてルソーが断然光って見えたわけだ。事実、日本でも松方デフレ以降の急速な資本主義化は伝統秩序を解体しつづけていた。最大の問題は、日本人が「国家」としてまとまらねばならないこの時期に、逆に伝統的人間関係が崩れ去り、競争主義が蔓延してしまった点にあった。
その際、明治新政府がとった中央集権化は、当時の実情からかけ離れた過激なものに終始した。例えば地租改正・徴兵制・学制から廃刀令にいたる強制的「法治」主義は、日本人の生活リズムを完全に無視していた。また明治12年提出の谷干城「陸軍恩給令改正意見」によれば、9年に制定された陸軍恩給令はフランスの事例を直輸入したものであり、戦死した場合の扶助料は妻子に支給されることになっていた。しかしこれは家を重視し、父母を優先する日本の現状とはまったく相容れない制度設計だったのである。神風連の乱や西南戦争は、こうした歪が生みだした悲鳴のようなものであった。