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《日本人のリズムに即した、国力の増強方法がある》批評家・先崎彰容が発表した「新・富国強兵論」

2023/01/13

今こそ明治を思い出し、身の丈にあった日本の国家像を取り戻すべきだ――。批評家の先崎彰容氏による話題の論文「新・富国強兵論」の一部を公開します(「文藝春秋」2023年2月号より)

核兵器もなければ防衛装備品も存在しない

 令和4年はすべてが重々しく、かつ異様であった。

 戦争であれ国葬であれ、賛成反対の意見は割れるであろう。民主主義国家である限り、多様な意見は当然だといえる。だが私には、日本人が皆、おなじ精神状態に陥っているように見える。表面上は意見の隔たりがあるにもかかわらず、今、誰もが「漠然とした不安」に心を占拠されているとしか思えないのだ。

 急激な円安は食料品や原材料の高騰をよびこみ、私たちの生活におよんでいる。電気料金もあがり続け、節電要請もはじまった。まるで戦時中のようである。バブル崩壊以後、低成長の30年を経て、今、決定的な経済の失速に直面している。テレビには冷笑的なコメントが溢れ、若者はYouTubeの夥しい番組の世界に閉じこもっている。虚ろに若者は言うだろう、「かつては日本も経済大国だったらしいよ」と。経済大国の名誉を失った時、日本人にはいったい何が残されているのだろうか。食料自給率は低く、エネルギー供給も他国に依存する極東の小国は、核兵器もなければ潤沢な防衛装備品も存在しない。「富国」に失敗し「強兵」もできず、どんづまり状態の日本人は、ただただ立ちすくんでいる。漠然とした不安に陥るのは当然のことではないか。

先崎氏

 かつて詩人の萩原朔太郎は、「日本への回帰」という文章において、「今の日本には何物もない。一切の文化は喪失されてる」と言ったことがある。明治以来の日本は超人的な努力をして、死にもの狂いで西洋文明を学んできた。科学技術を学び、条約改正に成功し、日露戦争に勝利し、富国強兵に成功したのである。だが気がついてみると、西洋の真似をしても完全な西洋になることはできなかった。しかも日本独自の文化をみずから全否定し、省みもしてこなかったのである。だから明治維新から半世紀以上後の1937年、朔太郎は次のように嘆息するしかなかった――「僕等は一切の物を喪失した」。

 令和4年の日本もまた、同じではないか。終戦以来、77年もの間、経済成長を国是にアメリカモデルを追求して死にもの狂いで働いてきた。その結果、世界第2位の経済大国という称号も手に入れたのである。だが過去を全否定し、本物のアメリカにもなれない日本は、今や経済大国のプライドも失い、一切を奪われた状態ではないか。統一的指針などどこにもない。アメリカの威信がゆらぎ、砂粒のようにバラバラな世界で、どの国が国際社会の中心に躍りでて支配するのか。その際、日本はどう振る舞うべきなのか。

 私たちはいったい何をたよりに、自分らしさを、つまりは国家像を描けばよいのか。

 私は、解決策があると思っている。つよい言葉を承知でいえば、日本人に今、新しい富国強兵のモデルを提供できると思っている。それは当然、朔太郎が憂慮した西洋の猿真似の富国強兵とは、全く異なるものになるだろう。国が富むとは、いったいどういうことなのだろうか。また令和の日本において、強兵とは具体的にどうすることなのか。ヒントは初心に還ることで得られる。一度目の富国強兵の場面を、復習することからはじめよう。

明治の富国強兵論

 明治憲法制定と日清戦争の勝利は、富国強兵政策の象徴的事例である。維新以来30年弱で達成された近代化の道のりは、前後で2つに分けることができる。

 坂野潤治『近代日本の国家構想 一八七一─一九三六』によれば、明治4年の廃藩置県から明治14年政変までの第一の期間は、新政府が急激な中央集権化を目指しつつも、3つの国家像が乱立し、しのぎを削る期間であった。西郷隆盛に象徴される対外ナショナリズムであり、大久保利通の殖産興業化、そして木戸孝允の民主化路線である。具体的には征韓論であり、開発独裁であり、立憲体制の確立ということになる。

 坂野氏は、これが単に制度観の違いであれば鼎立可能だが、自らが正しいと考える国家像の対立だったこと、またひっ迫する財政上の限界から、優先順位をつけざるをえなかったと考える。財力が国力を決すると考える殖産興業化の立場からすれば、法整備は後回しにしても構わない。一方、徴兵制で腰を抜かす民間人を見て、征韓論派は武士の名誉回復こそ、国の独立に欠かせないと考える。国家像をめぐる対決は、権力という一つの椅子をめぐる争いを生みだした。そしてまず明治10年の西南戦争で西郷の国家像が敗れてゆく。それは開発独裁派にとってチャンスが到来したようにも見えたが、実情はそれを許さなかった。西南戦争の戦費をまかなうための不換紙幣の発行が、激しいインフレーションを引き起こしたからである。北海道開拓使官有物払い下げ事件として有名な民営化をめぐる騒動は、政府主導で殖産興業化を推し進めることの限界を示していた。

 だが歴史のアイロニーは、開発独裁派の駆逐に成功し、最後に残された民主化路線にも容赦なく退場をうながした。それが明治14年政変による、大隈重信・福澤諭吉派の政府からの一掃である。二大政党制によるイギリスモデル導入の夢はここで消えた。以後、政府は松方正義のデフレ政策によってインフレの沈静化をはかりながら、ドイツ型立憲主義を軸とした国づくりをおこなう。伊藤博文の国家像が主流の時代、第二期がやってきたのである。同時代ヨーロッパで起きた普仏戦争の勝敗が、ドイツモデルの国づくりを促した。伊藤は巧みに富国と強兵を両立させ、さらに民主化にも成功する。明治憲法制定と日清戦争の勝利が、具体的な成果として得られたわけだ。