「国民主義」の魅力
今日、谷や羯南の保守派は「国民主義」(小林和幸)と呼ばれる。明治新政府への懐疑にくわえ、反藩閥の自由民権運動も急進的であり、国家解体につながると批判した彼らにとって、日本人は国民として是非とも団結すべき時代であった。その方法は、新政府の法治主義・経済的自由主義・過剰な欧化とは真っ向から対立するものだった。欲望の無限拡張を戒め、法に代わる「道徳」を重視し、伝統に足場をおき、反欧化としてナショナリズムを強調したのである。谷が対ロシア非戦論だった以上、ナショナリズムをすぐさま対外拡張論とみなすのは間違っている。日本には独自の、身の丈にあった富国強兵政策が必要なのであり、西洋の法律と経済システムは普遍的でもないし、自明の「正しさ」でもなかったのである。
私は彼らに、令和の富国強兵論のヒントが隠されていると考える。中江兆民は確かにルソーを学んだ。だがそれはルソーが西洋文明を自己批判する姿に魅せられたからである。西洋文明は、欲望の無限拡張を許し、自由主義経済を肯定している。それを堕落と考えたルソーに兆民は激しく共鳴したのだ。また谷干城や陸羯南は、今こそ日本人は国民として政治的に団結すべきであり、しかしその方法は中央集権的であってはならないと説いた。徴兵令や恩給令のように、西洋の方法を無条件に導入するのではない。日本人のリズムに即した、国力の増強方法があると言うのだ。
だとすれば、令和の富国強兵論も彼らの立場にたつべきだろう。具体的には令和の富国論は、新自由主義に懐疑的であるべきであり、令和の強兵論は、米中対立に必ずしも左右されない、独自の防衛政策と外交秩序を目指すべきことを提案する。
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先崎彰容氏による「新・富国強兵論」は「文藝春秋」2023年2月号および、「文藝春秋 電子版」に掲載しています。
新・富国強兵論