「脱成長」を掲げるベストセラーに物申す。批評家・先崎彰容氏による「『人新世の「資本論」』に異議あり」を一部公開します。(月刊「文藝春秋」2022年2月号より)

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 かつて、批評家の吉本隆明は『共同幻想論』の中で、人間の正常と異常について書いている。普通では理解しがたいことを、人間はするものだ。個人で冷静なときには変だとわかっていても、私たちは状況が変われば簡単に巻き込まれて悪行をなす。その理由は、人と人との関係がもたらす「幻想」に憑かれて状況判断ができなくなるからだ――これが吉本の主張だった。言いかえれば、僕らの正常・異常の判断など曖昧なもので、てんであてにならないという意味である。

イデオロギーへの“熱狂”という危険

 吉本は戦時中、今回の戦争が絶対に正しいと考え、疑いをもたなかった。でも8月15日を境に、善悪の基準は正反対になってしまった。善悪の基準の瓦解を体験した吉本は、深刻な精神的危機に陥ってしまう。もがき苦しみながら、吉本は人間にとって「信じる」とは何なのかを終生の批評課題に据える。自分の考えを絶対に正しいと「信じる」人間、眼を輝かせて正論を語る人たちを警戒しつづけたのである。例えば戦後、民主主義を声高に主張し、戦前の日本を批判する者たちが知識人を中心に続出したが、吉本がこれを支持することはなかった。なぜなら、自分が常に正義の立場にたち、理想を完全に信じ、他者を糾弾するその目つき、しぐさが、戦前の天皇制支持者とまったく同じだったからである。天皇制絶対主義者と民主主義者は、表面上のイデオロギーの違いがあるにもかかわらず、各々が「信じる」理想にいささかの疑いももたない点で、違いはないと思ったのである。

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ベストセラーとなった『人新世の「資本論」』著者の斎藤幸平氏

 またもう一つ、吉本は戦争体験から、批評課題を取りだしてみせた。それが「関係の絶対性」という有名かつ難解な言葉である。この概念で吉本が主張したかったのは、人間にとって、他人と連帯することの難しさだった。人間同士の関係は、自分を絶対的に拘束してくることがしばしばあり、自分独自の考えをもつことはとても難しい。周囲に流されず、反対を恐れずに自己主張することの困難さを、吉本は「関係の絶対性」という言葉に込めたのだった。

 吉本は、自分に熱狂し信じ過ぎることを警戒しつつ、一方で、他人と安易に連帯し、同じ方向に滑走していく個人の弱さを戒めてもいる。つまり吉本にとって、人は、常に、どこか醒めていなければならないのであって、自分にも連帯にも陶酔してはならないのである。