一方で「価値」とは、市場でいくらの商品になるかが重要な指標になる。例えばまっさらな未使用のノートでも、大思想家が一生涯かけた思索の結晶である古本であっても、同じ100円の値がつく場合がある。大思想家の作品に、ノートとは比べようがない無上の価値を認める人は多いだろう。だがそれは、大思想家に独自の個性を認めているからなのであって、資本主義とは、各々の個性をわきに置いて、あらゆる存在を「商品」とみなし、貨幣の前に平等に額づかせる行為にほかならない。人間の命の値段まで数値化されて車の値段と比較できてしまうのが、資本主義の特徴なのだ。
そして「価値」を基本原則とする資本主義は、「使用価値」もすべて商品にしてしまったのである。水や空気、土地などの地球の恵みに価格をつけて、商品化し、貨幣で売買できるようにしてしまったのだ。
資本主義の歯車にからめとられている限り、私たちは環境を破壊しつづけ、また幸福になることもできない。超富裕層だけが利潤を世界中に嗅ぎまわり、貧者の苦悩も環境破壊もお構いなしなのだ。
理想社会に潜む“偽善”とは
ではどうすればよいというのか。レジ袋を削減するなど、小手先の手段は通用しない。もう、それでは間に合わない、遅いのだ。必要なのは資本主義の終焉だ。マルクスの手を借りて現代資本主義の分析を終えた斎藤氏は、「だからより良い未来を選択するためには、市民の1人ひとりが当事者として立ち上がり、声を上げ、行動しなければならないのだ…正しい方向を目指すのが肝腎となる」(6頁)と主張する。
私たちには「正しい方向」というものがあり、それを目指せば「より良い未来」がやってくる。そのために人々は「行動」すべきであり、正しい道はマルクスを読んだ斎藤氏が知っているというわけだ。
営利目的とは別の小規模の市民による経営、地産地消し、地域コミュニティ内部で循環する経済イメージこそ、「コモン」なのである。それによって生まれる世界と、そこで働く人々の姿は、とても美しい。労働現場での競争はなくなり、意思決定は民主主義的に行われるという。また「自分らしく働く」ために人々は汗をかくのであり、相互扶助の精神があふれている。消費の欲望一辺倒だった資本主義社会が終焉した際の人々を、斎藤氏は次のように描くだろう――「スポーツをしたり、ハイキングや園芸などで自然に触れたりする機会を増やすことができる。ギターを弾いたり、絵を描いたり、読書する余裕も生まれる」(267頁)。また「ボランティア活動や政治活動をする余裕も生まれる」(同)。
このような「脱成長コミュニズム」に、私たちは到達せねばならない。逆に到達しようとしなければ、地球は滅びる。資本主義を停止し、気候変動問題に関心をむけなければ、人間は確実に滅びるのだ。だから「こう言わねばならない。『コミュニズムか、野蛮か』、選択肢は2つで単純だ!」(287頁)。