弁舌が熱を帯び、理想世界を誇らしげに語るこの瞬間、斎藤氏の言葉が硬直化しはじめていることに気づかねばならない。瞳に映る美しい世界に、斎藤氏はいささかの疑いも持っていない。人種や階級、ジェンダーによる分断は、斎藤氏の処方箋によって美しい世界に確実に変わる。これ以外の方法はないと自分を「信じる」知識人の姿がここにはあるのだ。
かくして、斎藤氏は資本主義を乗り越えるために、直接行動を求め始める。保育士一斉退職、医療現場からの異議申し立てにはじまり、ストライキや階級闘争、デモや座り込みといった「直接行動」による連帯こそ、今、世界を変えるために必要だというのだ。世界大の行動につなげていく必要があるというのである。
「コミュニズムか、しからずんば死か」
世界を牛耳る1%の超富裕層に立ち向かい闘争するために、すなわち99%の人々を救うために、私たちは立ち上がる必要がある。それは二者択一の前でコミュニズムの方を選択した少数精鋭たち、例えば3・5%の覚醒した人々によって担われることだろう。「もちろん、その未来は、本書を読んだあなたが、3・5%のひとりとして加わる決断をするかどうかにかかっている」(365頁)。
この鬼気迫る斎藤氏の演説からわかることは次の3つのことである。第一に斎藤氏はこの世界を終末論的に描きだし、「コミュニズムか、しからずんば死か」という選択の前に立たせること。他者を緊張の中に追い込み、一方の選択肢しか選べないような仕方で、決断をうながすために言葉を使う人物であること。第二に、自分が語る世界観の美しさを「信じる」ことに疑いがないこと。そして第三に、他者との連帯と世界への拡張を求めて、声を荒げていること、以上の三点である。
このとき、斎藤氏の演説が、吉本隆明の批評とは別の言葉の使い方をしていることに、私は驚く。吉本にとって、批評とはまず何よりも自分の正義感を「信じる」ことの放棄から始まったからだ。また「関係の絶対性」とは、他者と連帯することがいかに危うい可能性を秘めているのかを指摘した概念であり、自らの手で個性を放棄し、戦争を含めた、集団化した社会運動に没入することを戒める言葉であった。ところが斎藤氏の演説には、この感受性のいずれもがなく、言葉の「しなやかさ」が欠如している。他者との連帯は無条件に善だと信じられていて、際限なく拡張すべきだとされているからだ。そもそも、地域コミュニティとは、時間の蓄積をもち、長年の付き合いと郷土愛によってつくられるはずである。にもかかわらず、地域への愛情による「つながり」が、怒りの連帯、世界大のデモ運動にまで一気に飛躍するのはなぜなのか。斎藤氏はここで、2種類の「つながり方」を無意識のうちに粗雑な手つきで扱っている。
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先崎彰容氏による論考「『人新世の「資本論」』に異議あり」の全文は、月刊「文藝春秋」2022年2月号と「文藝春秋 電子版」に掲載されています。
「人新世の『資本論』」に異議あり