オスカル役の大スターが耐えた30年以上の闘病生活。文藝春秋2023年1月号より「安奈淳『ベルばら』50年『一本の木で死にたい』」を一部掲載します。(インタビュー・構成 柳田由紀子)

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 ——古稀を迎えられてから、コンサートを以前より頻繁に開催されています。チケットはソールドアウトの連続。そのうえ、今年は『ベルサイユのばら』誕生50周年ということでますますお忙しいですね。

「実は私、何度か死にかけているんですよ。ある時など、『お気の毒ですが』と医師に告げられ、お葬式を考え始めた友人までいます。50代、60代は生きているだけで精いっぱい。そんな私が75歳まで生きのびて、『ベルばら』を語ったり、歌ったりしているのですから、人生って、自分を超えた不思議な力が働いていると感じますね」

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安奈淳さん ©文藝春秋

「ベルばら」の愛称で知られる劇画『ベルサイユのばら』(池田理代子作)の連載が「週刊マーガレット」で開始されたのは1972年。フランス革命時のベルサイユ宮殿を舞台に、実在の人物と架空の人物が織りなす華麗な歴史ロマンは少女を中心に大人気を呼んだ。

 2年後には宝塚歌劇団が舞台化。「ベルばら」ブームと呼ばれる社会現象を巻き起こした。劇中歌『愛あればこそ』を、今でも諳んじて歌える女性は多い。

 安奈淳さん(75)は、その宝塚版『ベルばら』で男装の麗人、オスカルを演じた元男役のトップスター。退団後も帝国劇場での『屋根の上のバイオリン弾き』ほかの大作に次々と出演したが、一方で壮絶な闘病生活を繰り返した。70代に入りようやく健康を取り戻して以降は、シャンソンやジャズなど歌を中心に活躍している。

大ブームとなった原作漫画「ベルサイユのばら」

オスカルが“女”になる瞬間

「『ベルばら』の上演に際しては、『生身の人間が演じるな』と賛否両論が巻き起こりました。ところが、蓋を開けてみると初日からものすごかった。幕が上がった瞬間に、客席からドーッと拍手や歓声が湧きあがって。その客席も満杯で、宝塚大劇場の3階席から立ち見のお客様がこぼれ落ちるようでした。

 私が演じた近衛連隊長のオスカルが、一度だけ女になって花道から現れる場面がありました。白いドレスを装い舞台に向かうのですが、途中で立ち止まり、“七三”といって首を回して3割方客席を見る瞬間があるんです。その時に毎回必ず、劇場中がゴーッと地響きみたいな音と波動に包まれた。ワーッとか、ザザーッじゃなくて、ゴーッ。ため息も数千人が一斉だとこうなるんだと、初めての経験で、こちらも全身の細胞が粟立った感覚は半世紀たった今もはっきり覚えています。

17歳、初舞台を踏んだ頃 本人提供

『ベルばら』以前の数年間は、テレビなど娯楽の多様化で宝塚も空席が目立ち始めていました。座席の背に白いカバーを被せてあるでしょ。あれを“看護婦さん”と私たちは呼んでいて。舞台の袖から客席を眺めて、『いやー、今日は看護婦さんの団体やわ』なんて話すこともあったくらい。それが、『ベルばら』で一気に宝塚の観客動員記録を書き替えた。大阪、東京ほか全国津々浦々を巡業しましたが、ちょっと恐怖でした。

 というのも、熱狂の度合いが尋常じゃなかったんです。お客様は、たいてい若い女の子。女のパワーは男よりすごいですよ。楽屋口がいわゆる“出待ち”のファンで溢れ返りまして。今は、ファンの方々は整然と並んでいらっしゃいますが、昔はグチャグチャでしたから。

 ある時、知り合いのゲイの男性が4人来てくれて、『今夜は私たちがいるから大丈夫よ!』。それで彼女たちに囲まれて出ていったら、あっという間に4人とも弾き飛ばされていなくなっちゃった。待ち合わせ場所の帝国ホテルには私のほうが先に着いて、後からヨレヨレになってやって来た4人が、『女は怖いわ〜』って。

 地方巡業では、主催者が松葉杖をついてらしたことがありました。『どうしたんですか?』と訊いたら、出待ちの群衆に巻き込まれて『骨折しちゃいました』。女は怖い(笑)」

 ——熱狂の『ベルばら』から3年後、『風と共に去りぬ』のスカーレット役を最後に、13年間在籍された宝塚を華やかに退団されました。

「退団が31歳、その直後からですね、不調を感じ始めたのは。最初はC型肝炎。ひどい黄疸でしたが、芸術座公演が決まっていたのでそのまま出演しました。医師から、『全責任は患者にある』と一筆書かされて。あの芝居の私の役は高貴な方で、白塗りのおすべらかし。そんな分厚い白塗りでも隠しきれず異様な肌色で演じていました。

 入院したのは千秋楽後です。肝炎は何年間も治らないままで、そこにもってきて今度は髄膜炎。突然、ハンマーで頭を叩かれたような衝撃で、ベッドから転げ落ち救急車で運ばれました。病院で髄液を採ったら真っ白でした。普通は透明に近い色なんだそうです。これが確か37歳。若かったこともあり楽観的に構えていましたが、今から思えば、肝炎も髄膜炎も、その後30年以上続く闘病生活のほんの序章だったのです」