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 しかも大阪大会といっても会場は空き地、相手はプロレスラー。「さすがにプロレスは経験がないからできない」って断ったんですが、「いや、プロレスじゃないですよ。キックボクシングの試合をプロレスの興行の中でやるんです」と。それがきっかけで、気づけばそのままプロレスの世界へ(笑)。

 何度かプロレスの興行に出るうちに、大日本プロレスが「うちに来ませんか」と誘ってくれたんです。そして大阪から横浜へ引っ越すことになりました。30歳のときでした。

人生を変えた「父の自殺」

 その頃僕の実家では、親父の酒量がどんどん増え、どんどん借金は膨らむばかり。当然、闇金にも手を出してる状態で、朝から晩までヤクザが何度も取り立てに来る。でも、そんな状況でも親父は飲みに行ってしまうんです。普通は妻が夫に「いい加減にしたら?」とか怒ったりするんでしょうけど、うちのおかんはとにかく優しい。「しんどいねんから休んだらいいやんね」って。そんな母親を見てたら、優しさでも人は殺せるなって。

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 弁護士に相談して、どうにもならなくなった家業を整理することにしたんです。数百万の借金は僕が返済します、プロレスのギャラで払いますと。

 何年もかかって全部返し終わった日には、ひとりパブで乾杯しましたよ。ようやく終わった! と。で、しばらくほっとしてたら、おかんが「話がある」と。家に帰ったら、実はもっと借金があることを隠していたんです。相当な額を闇金から借りていて。正直、父親の会社の借金以外はまったく知らなかった。

 さすがに頭が回らなくなって「ちょっと考えられない、寝る」と言って、僕はふて寝したんです。しばらくすると、仕事場の方から動物みたいなものすごい声が聞こえてきたんです。母親の泣き叫ぶ声でした。

 その瞬間、僕はなにが起こっているのか、大体わかってしまったんです。もうずっと永遠に時間がこのまま止まってほしい。頼むからこのままずっと寝させてくれと。仕事場で父親が首を吊っていたんです。

険しい道を乗り越えた末に見つけた「熱波道」(写真:筆者撮影)

 僕は自分のやってることをやめようと思ったことは一度もなかったんですが、全部やめようと思いました。家族を少しでも幸せにしたくて一生懸命にプロレスをやってきたのに、自分は失敗してしまった。

 それで、親父のことを会社に電話で伝え、「プロレスはもう辞めます」と。すると、登坂栄児社長(当時は統括部長)が嗚咽しながら「井上さんがプロレスできなくなるようなことは絶対にさせない」と言ってくれたんです。

 ほかにもいろんな人から電話をいただいて。みなさんに励まされ、その後、しばらくは続けました。でもやっぱり、父の死は精神的につらかった。しかも、身体的にも続けることができない状態だった。もともと靭帯も断裂しているし、試合中に踏み込みが遅れてしまう。改めて全身を診てもらったら、右目視神経症という難治性の病気が発覚したんです。右半分がほとんど見えていないと。ああ、これはもう廃業だなと。

「引退」という言葉を使わなかったのは、その後も業界に残って後進の教育ができる人だけが使える言葉だと思ってるからなんです。