「うちとしては、サウナはみんな平等に気持ちよくなる場所ですから」

 六本木の老舗サウナはなぜ刺青やタトゥーを持った客も受け入れるのか? すべてのサウナ客を満足させる「アダムアンドイブ」の流儀を、2代目社長の文沢圭(ムン・テッキュ)氏にインタビュー。五箇公貴氏の新刊『サイコーサウナ』より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/前編を読む)

六本木の老舗サウナ「アダムアンドイブ」の誕生秘話をお届けする。(写真:筆者撮影)

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 父が韓国で行っていた家業が倒産し、知り合いを頼って日本に働き口を探しに来たのが始まりでした。1987年頃のことです。父が初めて日本に来たとき、全財産は1万円。でも免税店でタバコ買うんですよ。買うんかい! って感じなんですけど(笑)。

 当時1カートン2000円くらいで、残り8000円。妻と子供もいるし、これからどうしようかな……って思いつつ喫茶店でタバコを吸っていたら、状況があまりにもネガティブすぎて、逆に気持ちがポジティブになり、これ以上悪くなることはないから、なるようになる! なんでもやってやる! と気持ちを切り替えたそうです。

 当時、ものすごく狭い場所に家族3人で暮らしていたんですが、僕はまだ幼かったので貧乏を理解できていなかったのは幸いでした。

来日4年でサウナを作った両親

 僕は日本語がまったくしゃべれなかったんです。なのにいきなり地元の小学校に転入して。昔って、転校生は全校集会で挨拶をするのが習わしだったんです。かろうじて「おはようございます」だけは言えたので、先生からそれだけ言いなさいと。

 みんなの前でマイクを向けられ「おはようございます」と言ったら、校長先生が僕に質問したんです。「どこから来たの?」とかそんな感じだったと思うんですけど。僕はなにを言っているかわからないし「おはようございます」しか言えないので、もう1回「おはようございます」って言ったんです。全校生徒が、「あ、この子言葉がわかんないんだな」って。それでいじめられました。

 西麻布という土地柄、大使館関係の子供や韓国人もいっぱいいたので「韓国人だから」ということではなく、言葉がわからないから、からかいの対象になったんです。当時、両親とは韓国語でしゃべっていましたが、親としては早く日本語を覚えてほしいという想いがあって、できるだけ家でも日本語を使うように促されました。

 必死だったので、半年ぐらいで不自由ないぐらいにしゃべれるようになりました。逆に韓国語のスキルがみるみる落ちてしまい、家ではいまだに母親は僕に韓国語で話しかけ、僕は日本語で返しているんです。

 そして、来日して4年くらいたった91年のことでした。麻布十番の「韓日館」という焼肉屋さんがあるビルの地下に、女性専用の「サウナイブ」というお店を両親が開業させるんです。女性専用でしたので、経営は母。当時は女性専用のサウナは少なく、その頃は新大久保の「ルビーパレスさん、ロアビルの「VIVI」さん(現在は閉店)があるくらいでした。