「急遽決まったこともあり、大学側からは正規職員として雇用は出来ないと言われまして。私はHondaでは正社員で、2014年には資材担当の主任試験にも合格して、ちょうど家のローンも組んだところでした。それが中央大学では3年間の有期雇用で、その後は成果を見て判断という形でした。結果的には1年が経過した時点で正規雇用になりましたが、バタバタとスタートしたというのが実情です」
肝心の強化現場でも、名門のプライドは失われていた。
「3月に最初の合宿を行ったら、選手たちの練習の様子は想像以上にいい雰囲気でした。『これだけ練習できるのに、どうして結果が出ないんだろう?』と不思議に思ったほどです。でも実際は、監督が替わったばかりで学生たちが目いっぱい頑張っていたんですね。ちょっと時間が空いた時にトラックを覗きにいくと、実際の練習はサークル同然でした」
合宿所で学生たちと一緒に寝食をともにする時間もあったが、数カ月チームを預かって感じたのは「“下限”がない」ということだった。
「このくらいはできるだろうと思っても、その想像を下回るんです。あれも出来ない。これも出来ない。えっ、これもダメか……ということの連続でした」
異例の1年生主将抜擢に部内外から「ものすごい反発」が
そして6月に行われた全日本大学駅伝の予選では17位と完敗。このままの体制では強化が進まないと考え、藤原監督は劇薬を注入する。
「1年生の舟津彰馬(現・九電工)をキャプテンにしました。4年生は主体的に引き受ける雰囲気がなく、3年生はリクルーティングが苦戦した学年で3人しかおらず、長距離の人材が不足していました。2年生には実力者の堀尾謙介(現・九電工)がいましたが、ケガ明けで自分から引っ張っていける状態ではない。そこで思い切って、上級生にも物怖じしない舟津に白羽の矢を立てたんです。私としては『舟津に懸ける』という思いでした」
この異例の判断はコーチやOBなどを含めて、部内外から轟々たる非難を招いた。
「ものすごい反発でした。学生スポーツですから、4年生が部を引っ張っていくべきだということは私だって重々承知しています。でも、これくらいドラスティックに変えなければ前に進めないというのが当時の感覚でした。『他になにか手があったのか?』といま考えてみても、どうしても思いつかない。難しいですが、もう一度同じことをしたと思います」