いわゆるショック療法だったが、待っていたのは最悪の事態だった。藤原監督の就任から半年後の2016年10月15日、箱根駅伝予選会で中大は11位に終わる。箱根駅伝連続出場の記録が87回で途切れた瞬間だった。10位の日大とはわずか44秒差。予選会が終わった公園の芝生の上で、1年生主将の舟津は関係者を前に涙まじりにこう話した。
「外部から心ない声や、本当に今年は大丈夫なのかと多くの声をいただきました。でも、自分たちはやれると思いながらやってきました。それに対して、誰も文句は言えません。もし先輩方に文句を言うような人がいたら、自分が受けて立ちます。自分にすべてぶつけてください。先輩に心ない声や、そんなことを言う人がいたら、自分は許しません」
現場で聞いていて、心が揺さぶられた。それは1年生主将の慟哭だった。
しかし予選会の朝、藤原監督は覚悟を固めていたという。
「ギロリと睨まれたことも覚えています」
「陣容として厳しいのは分かっていましたし、もしも予選会を通らなかった時のためのチェックリストも書いておきました。自分は責任を取って辞めなければいけないかもしれない。でも1年間で私が感じた、復活のためにやらなければいけないことだけは書き出しておきました」
数日後、大学の経営陣への予選会敗退の報告の場が設けられた。「正真正銘の針のムシロでした」と藤原監督はいう。しかし藤原監督は謝罪と同時にある要求を提示した。
「学長、理事長をはじめとして経営陣の方々を前にして、『私はクビになっても構いませんが、学生たちのためにこれだけのことは必要です』と話をしました。そして強化予算を他校と比較して、強くなるためにはこれだけの合宿が必要で、これだけの予算が足りませんとお話をさせていただきました。ギロリと睨まれたことも覚えています。ですが、私は『この予算を付けていただいたら、そこがスタートラインです』と話したんです」
結果は、吉と出た。
中大は現状を理解し、バックアップすることを決める。藤原監督はいう。
「学校側が本気になってくれたんです。予選会で落ちない方が良かったに決まっていますが、結果的にあのおかげで学校が味方になってくれました。良くも悪くも、箱根駅伝をめぐる状況をご理解いただけたのかな、と思います」
わずか、7年前のことである。
「いまもう一度あの時に戻ったら、監督を引き受けようとは思わないかもしれませんね(笑)。私も、若くて向こう見ずだったのかも。でも情熱だけはあったんですよ」
そこから、ようやく中大の復活が始まった。