2007年、熊本市にある慈恵病院が、親が育てられない子どもを匿名でも預かる「こうのとりのゆりかご」の運用を始めた。開設初日に預けられたのは3歳の男の子だった。

 それから15年後の昨年の春、18歳になったその男の子が実名で顔を出して自身の生い立ちを公表した。現在は大学に通いながら、当事者として「こうのとりのゆりかご」について発信したり、子ども食堂の活動に力を入れている宮津航一さん。彼はこれまでどのような人生を送ってきたのか。公表するまでの経緯について詳しく話を聞いた。(全2回の1回目/続きを読む)

子ども食堂の活動を行う航一さん 写真=本人提供

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成人したタイミングで公表すること決意

――昨年の春、宮津さんが「こうのとりのゆりかご」出身であることを公表されました。きっかけは何だったのでしょうか。

宮津 世間の好奇の目に晒されないようにとずっと隠してきたんですが、当事者としていつかは公表したいという気持ちがずっとありました。

 生い立ちについて隠してきたことで自分の中に壁を作ってしまっている気がしていたんです。それに賛否両論ある「こうのとりのゆりかご」について当事者である私が発信することには大きな意味があると思っていて。それで成人したタイミングで公表することを決めました。

――宮津さんは3歳の時に「こうのとりのゆりかご」に預けられたんですよね。

宮津 そうです。その時の記憶はほとんどないんですが、ゆりかごに入る前の扉だけは今でも鮮明に覚えています。青いアンパンマンのジャージに、白と緑のズック靴を履いて、泣きもせず保育器の上にちょこんと座っていたようです。

 当初、病院側は開設以来初めての預け入れで、しかも乳児が預けられることを想定していたところに3歳児が来たのでとても驚いていたようです。

児童相談所に半年ほど預けられ、宮津家の里子に

宮津家のお兄さんたちに囲まれる航一さん(一番左) 写真=本人提供

――出自に関することは何か記されていたのでしょうか。

宮津 預けられた時は洋服と靴以外には何も残されていなかったようです。名前や生年月日もわからなかったので、当時の市長に「航一」と命名してもらって戸籍を作成していただきました。

 病院から児童相談所に半年ほど預けられ、本来であればそこから乳児院もしくは児童養護施設に入ることになるんですが、私の場合はそこを経由せずに宮津家の里子となりました。

 宮津家が里親登録をしたちょうど2ヶ月後に、「ゆりかご」に預けられた私の話が来たみたいで。最初は年齢の部分で悩んだらしいですけど、母と祖母が3歳の子なんてかわいいに決まってると言ってくれて里子として迎え入れることになったみたいです。