2007年、熊本市にある慈恵病院が、親が育てられない子どもを匿名でも預かる「こうのとりのゆりかご」の運用を始めた。開設初日に預けられたのは3歳の男の子だった。
それから15年後の昨年の春、18歳になったその男の子が実名で顔を出して自身の生い立ちを公表した。現在は大学に通いながら、当事者として「こうのとりのゆりかご」について発信したり、子ども食堂の活動に力を入れている宮津航一さん。そんな彼に「こうのとりのゆりかご」が果たす役割や生い立ちを公表して変化したことなどついて詳しく話を聞いた。(全2回の2回目/最初から読む)
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「捨て子を助長するのでは?」という指摘も
――慈恵病院が設置した「こうのとりのゆりかご」は、100人以上の子どもたちの命を繋いできた一方で、「捨て子を助長するのでは?」という指摘もあります。当事者として感じることはありますか。
宮津 「こうのとりのゆりかご」の扉は二重構造になっていて1枚目の扉を開けると「お父さんへ お母さんへ」と書かれた1通の手紙が入っています。それを受け取らないと次の扉は開かないようになっていています。単にポンと預けられるようなシステムではなく、そこに来た親にとってその扉はとても重いものだと思っています。
また、「こうのとりのゆりかご」はセーフティーネットとしての役割が大きいと思います。もちろん利用されないに越したことはないですが、社会に育児支援やサポートなどが拡充された上で、最後の砦として「こうのとりのゆりかご」があるべきだと思っています。
――「こうのとりのゆりかご」は匿名で預けられる仕組みになっているため、子どもの出自を知る権利が守られていないと批判する声もあります。
宮津 匿名でなかったら預けられていなかった子どももいるかもしれませんので、その部分は非常に難しい問題です。私自身、実の父親については今も全く知らないままです。実の母親については私を里子として迎え入れた両親と一緒に故郷を尋ね回って写真をいただくことができましたが、父親の手がかりは見つかっていません。
小学校1年生の時に、生い立ちを振り返る授業で自分だけ写真がなかったり、生まれた時のことがわからなかったのは悲しかったです。母親の写真をいただいた時に、母の髪が天然パーマだったのを見て、私の天然パーマは母からの遺伝なんだと自分のルーツがわかって嬉しかったのを覚えています。