東日本大震災の発生当時、日米は原子力災害にどう対応したか――。月刊「文藝春秋」2023年2月号に掲載された北村滋氏の連載「外事警察秘録」より一部を公開します。
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情報不足が招いた混乱
2011年3月11日午後2時46分。警察庁が入る中央合同庁舎二号館は、大きく撓(しな)るように揺れた。20階の外事情報部長室の壁や棚から、各国の治安・情報機関から贈られた数十枚のメモリアル・プレートが全て床に投げ出され、飛散した。私が体験した東日本大震災発震の瞬間である。21階のオペレーションルームに回り階段で駆け上がると、既に警察庁総合対策室が設置され、災害発生直後の喧騒が部屋を覆っていた。そして、56分後の午後3時42分、東京電力福島第一原子力発電所の1〜4号機で全交流電源喪失の一報が入る。現実のものとなる最悪の事態が対策室全体に暗い影を投げかけていた。
震災による原発事故発生の翌12年2月、後に我々の情報交換協議のカウンターパートとなる米国原子力規制委員会(NRC:Nuclear Regulatory Commission)は、発災当時に行われた部内の電話協議の様子を公表した。そこには発災立ち上りの情報欠缺(けんけつ)への強い苛立ちが繰り返し綴られている。
NRC職員「……情報が少なすぎる。われわれの見立てでは、発電所で最悪の損傷が起き始める。おそらく早くて真夜中(米東部時間)ごろからかもしれない」
グレゴリー・ヤツコNRC委員長「裏付けが取れるか」
NRC職員「事故情報は通信社の報道ベースだ。GE(注:ゼネラル・エレクトリック社、福島第一のBWR型原子炉製造会社)も、われわれ以上の情報がないと思う」
ヤツコ委員長「コミュニケーションミスだ。情報が入ったら、紙に書く。何を知っていて、知らないのか、すぐチェックできる。それに、情報共有を迅速にすることだ」
米国側は、日本政府からの不十分な情報提供に苛立っていた。当時、米国の日本政府への不信感は深刻なレベルに達した。原因の一つには、我が方が「情報」の収集・活用に失敗したことがある。
菅直人(かんなおと)・民主党政権は、発災当初、「情報」を武器として利用できず、逆にそれに振り回され、焦りの中で迷走していた。戦争であれ、災害であれ、緊急事態に国家と国民の命運を分けるものは情報力であるという事実を確認できるエピソードだ。