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《マルクス主義は人間をのっぺらぼうにする》昭和の論客が突きつけた「理想の化けの皮」と「リアルな視座」

創刊100周年記念企画

2023/01/24
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 心配ばかりしていてもしようがない! もっと楽しくやろう! 美しい理想を謳おう! それはたやすいことだ。しかし、そんな理想に溺れれば溺れるほど、本当の危険は増してしまう。心配事から目を背け、危機を取り返しのつかぬところまで増進させて、それでもなお気づかぬという、最悪の道にわれわれを導くこともある。だったら美しい理想の化けの皮を剥がねばならない。安心安全に水を差す。空疎な理屈をあざわらう。心配を減らすために都合よく歪められている現実の像を、より適切に修正しようとする。その場しのぎのごまかしを敢然と退ける。逃げの姿勢に釘を刺す。一寸先は闇だと思い知らせる。ならば、そこでどうすべきか。悩み考え、処方箋を出す。もちろん、いくら知恵を絞っても、これで解決ということは、人の世にはない。特に危機が亢進した時代にはまったくない。心配は続くよ、どこまでもだ。だからといって心配に負けない。かといって、心配を克服できるとは決して思わない。どこかで間違えて安心を得切ったと信じ、驕ってうぬぼれて、考えるべきことを忘却し、先入観に従って物事を何かの固定観念と結びつけて決めつける姿勢に固執するようになってしまったら、われわれはただちに真っ逆さまに落ちるのだ。国家の場合、それを没落や滅亡という。

 人の世は心配だらけの綱渡り。その気構えでひたすらゆく。ときにリアリズムとも呼ばれ、保守主義とも呼ばれる姿勢だろう。むろん、それらの姿勢の前提となるのは、認知の歪みを少しでも減らして現実を直視しようとする態度だ。リアルな視座を設定し、突きつける。『文藝春秋』の真髄は、つまるところ、そこにある。不断の心配を不断に切り抜け続けるための永久運動。その回転を絶やさぬために、ひたすら薪をくべる。その作業が、総合雑誌としての『文藝春秋』の100年の歩みであろうかと思う。

「帰朝以後の随感」(1941年8月号) 岡本太郎

岡本太郎 ©文藝春秋

 繰り返せば、100年分の中のどの号を読んでも、その不断の足取りはひしひしと伝わる。たとえば1941年の8月号を開く。巻頭の随筆に、出隆や野上豊一郎や大谷竹次郎と共に、画家の岡本太郎の名がある。文章のタイトルは「帰朝以後の随感」。岡本は当年31歳。11年に及ぶ欧州滞在を第二次世界大戦の勃発によって断ち切られ、1940年に帰国。徴兵検査を受け、甲種合格となり、1941年の冬には、陸軍二等兵として入営予定である。岡本は絵をしばらく諦めて「御国の為に御奉公する」決意を文中に示す。と思ったら、唐突に話を転換する。奈良に旅行したという。「古代日本の文化、芸術の規模の大きさと、強靱な美の様式に歓喜した。それは、私にとつて一大発見だつたのである」。岡本によれば、近世日本の芸術は個人主義に堕している。茶碗をいじってはさびや渋みがどうしたと言っている。けれど奈良時代の芸術は「大きな協同体の力」によっている。しかもとても積極的で豪胆でエネルギッシュである。「五丈数尺の大金銅仏」の物凄さ!

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政治学者・片山杜秀氏による「文藝春秋が報じた論客の肉声」全文は、「文藝春秋」2023年2月号と「文藝春秋 電子版」に掲載されています。

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文藝春秋が報じた論客の肉声
《マルクス主義は人間をのっぺらぼうにする》昭和の論客が突きつけた「理想の化けの皮」と「リアルな視座」

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