「きさんか? つまらん記事ば書いとうとは」
こうした状況下にある孝紘から、本来ならば来るはずのない手紙が私の手元に届いたのは、18年10月のこと。訝りながらも、封を開けると、どうやら間違いなく本人からの手紙のようである。というのも、その角ばった特徴のある文字は、紛れもなく見覚えがある彼のものなのだ。
〈北村ことC孝紘〉
封筒の裏面には、福岡拘置所の住所とともに、そう記されていた。その内容については後述する。
私が福岡拘置所にいた孝紘と初めて面会したのは、死刑確定の5年前となる06年10月。フリーランスの私がこの事件の発生時から取材で関わっていた週刊誌の編集部宛に、孝紘が弁護士を通じ、「話をしたいことがある」と連絡を入れてきたのだ。そこで長らく取材を続けてきた私が、面会に行くことになったというのが始まりである。
最初の印象は最悪だった。
「きさんか? つまらん記事ば書いとうとは。俺が捕まっとう思うて舐めとったら、タダじゃおかんぞ、こんクソが……」
当時22歳の孝紘は、拘置所の面会室のアクリル板越しに向き合った途端、そんな悪態をつくなり、こちらを睨み付けてきた。
それはまず力を誇示して、話を優位に進めようとする、彼らの世界の典型的な手法だった。しかし、アクリル板で仕切られているこの場では、直接的な暴力の行使は不可能であり、私が怯む理由はない。
「記事はたしかに私が書きました。けど、今日は孝紘さんから、なにか伝えたいことがあると連絡があったから来たんですよ」
そう返すと、彼は太い腕を胸の前で組んで、「うーむ」と唸るようにして顔を上げた。表情からは先ほどまでの怒気が抜けている。
「そうったいね。たしかに今日は俺が呼びつけたけん、来よらしたったい。わかった。いまから話すけん、メモばとって」
そこで彼が口にしたのは、4人を殺害した事件のことではなく、拘置所での自身への処遇に対する不満の数々だった。
以来、私達のやり取りが始まった。
当初は、孝紘にとっての私は、便利な存在に過ぎなかったように思う。本や衣類などの差し入れを希望すれば私が代わりに購入し、さらには彼の発言や手紙の文章を雑誌に記事として紹介すると、謝礼が発生した。それは拘置所生活で、彼にとって貴重な収入源となる。