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”強い”はずなのに魅力ゼロの中国とどう付き合うか

日本が中国を「安心して見下せた時代」は終わった

2018/02/05
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中国に上から目線で「期待」したり「失望」したりできた時代

 ところで、私が講義の締めくくりで必ず言及してきたのが、近代の日本人の中国観の変化だ。これは以前に『知中論』(星海社新書)でも書いた内容だが(ほかに松本三之介『近代日本の中国認識』(以文社)などいい本がたくさんある)、以下に再度ざっくりと紹介しておこう。

 前近代までの日中関係は、文化の面でも国力の面でも、日本が中国を仰ぎ見る状態が長く続いた。事実、弥生時代から幕末まで、中国から日本への文物の流入は多々あったが、その逆は非常に限られたものだった(宋代ごろから中国で日本刀が愛好されたり、明清交代期に日本側で中国を自国よりも下に見るような言説が生まれたりもしているが、トータルで言えば「中国>日本」が前近代の基本認識だ)。

 これが変わるのは幕末以降である。日本人が中国大陸に渡航し、漢籍の世界とは異なるリアルな中国社会や中国人の「ダメさ」が知られはじめたためだ。やがて1894年の日清戦争で日中間の力関係が名実ともに逆転し、さらに西洋化を先んじて果たした日本に中国人のエリートたちが学びに来る時代を迎えると、いよいよ「日本>中国」という、近代型の日中関係がはじまっていく。

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 とはいえ、漢文や中国古典は日本の知識人の基礎的な教養だったので、その文化的祖国である中国へのリスペクトは近代以降も存在し続けた。むしろ、本来は「スゴイ国」であるはずの中国の実態が、どこからどう見ても「ダメな国」であることへの戸惑いや苛立ちが、その後の日本人の中国観を独特なものにしたと言っていい。

 加えて中国国内でナショナリズム(≒「反日」的心情)が勃興した1920年代以降は、「ダメな国」のくせに日本に牙をむく中国の頑迷さや生意気さに対する憎悪も強まるようになった。

南京市内にある南京大虐殺紀念館の館内。開戦前の経緯についての客観的な説明は少なく、事件の被害を強調する展示内容だ。 ©安田峰俊

 かつて日中戦争中、「現在の戦争は、弟(=日本)が出来の悪い兄貴(=中国)を正しい道に戻すため、泣きながら殴っているようなもの」といった説明がしばしばなされたのは、当時の日本人の中国に対する心理を端的に示すものだろう。

 近代以降の日本では、ダメな中国をズバッと変えてくれそうな事件(辛亥革命、国民党の北伐、「新中国」の建国や文化大革命、天安門事件や中国民主化運動あたりが代表的だ)が起きるたびに、それらに期待する親中的な世論が盛り上がり、それが裏切られると一転して中国への失望が強まって、中国蔑視論や暴支膺懲(ようちょう)的な強硬論が力を持つという現象も反復的に発生してきた。

 過去の事例に照らせば、日本人が中国の変化に期待しすぎたり、中国の「生意気」な行動に過度に怒りをつのらせることは、日中関係に混乱を招きやすい。長年染み付いた中国への上から目線を排して、革命だの民主化だの日中友好だのといった耳障りのいい言葉に期待せず、かといって傲慢な振る舞いにも短絡的に怒らず、冷静に中国と向き合う姿勢が好ましいのではなかろうか――?

持ちネタが通じなくなった

 ……とまあ、そんな話が2010年代前半ごろまでの私の持ちネタだった。だが、ここ数年間で、上記のような話は「中国とどう付き合うべきか」という問いへの回答として適切とは言えなくなった感がある。

 その理由は、1894年から2010年前後まで存在した「日本>中国」という図式が、もはや成立しなくなったからだ。中国のGDPはすでに日本の2倍以上に達し、国際政治・経済における影響力は日本を明確に上回るようになった。

各国で中国の存在感は非常に大きい。写真はカンボジア、プノンペン市内。©安田峰俊

 もちろん中国国内には社会矛盾が山積みで、一般庶民の生活水準も人権状況もまったく先進国の水準に届いていないのだが、それでも国家としての存在感は大きい。2010年代になり東アジアのトップランナーが日本から中国に移り変わったことは、単純な数字の面だけではなく、ちょっと海外に行ってみるだけでも明らかに感じ取れる話だ。

 中国を賛美するにせよ嫌うにせよ、また「日中友好」路線にせよ「暴支膺懲」路線にせよ、日本人が上から目線で中国を眺めて、日本主導で日中関係をコントロールできると考えてきた「長い20世紀」はもう終わってしまったのである。