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右翼団体の手に渡った「持ち出し禁止」の資料

 おまけにメディアの眼も厳しくなった。私も東京国税局の資料流出を批判した一人だ。それは、査察部から流出した脱税調査報告書を右翼団体が入手したことがきっかけだった。

 国税庁と現場の国税局には、国税の内部警察にあたる「監察官室」が設けられており、職員の非行、犯罪に加え、資料流出のような問題もそこできちんと調査し、処分することが多い。だから不祥事が表に出ることは少ないのである。

 ところが、この事件は持ち出し禁止の約100ページの資料が脱税容疑の会社社長に渡り、さらにそれを右翼団体が手に入れて信用金庫に圧力をかけたことで警視庁が知るところとなった。

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 私はまだ読売の警視庁担当記者で、ネタ元からそれを聞き、説明を渋る東京国税局幹部とやりあった末に記事にした。特ダネだったから連日社会面トップで、初報の1988年8月28日付けに、〈脱税内偵の極秘資料流出 摘発日、相手社長へ〉、翌日が〈脱税査察内容流出事件 極秘資料、更に右翼団体へ〉と大きな扱いだった。

読売新聞社 ©文藝春秋

 国税局の内部調査によると、問題の強制調査は前年10月、東京・世田谷の電気工事会社の社長宅で行われた。株式売買をめぐる脱税(所得税法違反)容疑で早朝、査察官7人が踏み込み、夕方の終了時に、査察官が持ってきたバッグを開けて約100ページの内偵資料を取り出し、それを置き忘れてしまったという。「取り出したのは、他の場所で家宅捜索していた別の査察官に連絡するためだった」とされている。

 査察官は国税局に帰って仮眠し、翌朝、捜索報告書を作成しようとして重要資料がないのに驚き、社長に電話して回収した。翌年5月になって、資料のコピーが右翼団体に渡り、彼らは資料に記載されていた信用金庫に「顧客の機密を漏らした」と執拗に迫った。困惑した信金が警視庁に届け出たことで事件が発覚した。

 だが、大騒ぎの末、脱税事件としては不発に終わる。社長は修正申告をして約9000万円の追徴処分を受けた。国税局の「脱税の犯意がはっきりしなかったので刑事告発しなかった」という説明を、一部の警視庁捜査員は疑問視したが、ともかく査察官が訓告処分を受けたことで、一件は落着した。

国税庁取材のスタート

 しかし、私自身はそれで済まなかった。東京国税局とやりあった9か月後に、国税庁担当を命じられたからである。対岸から鉄砲を撃っていたのに、いきなり渡河攻撃を命じられたようなものだった。

 まずは国税庁と東京国税局のあいさつ回りから始める。当然ながら国税局幹部の対応は冷たかった。名刺を出すと、中堅職員が皮肉たっぷりに「前回、あなたの名刺はいただきましたよね」という。お前のことは覚えているぞ、というわけだ。口の端を歪めてフンと名刺を受け取る幹部もいた。どのツラ下げてここに来たか、という表情である。

 特に、一人のキャリア官僚には全く相手にされず、面談の時間も取ってもらえなかった。私がそれから5か月間、死んだふりをしてこつこつと取材源を作っていたのは、彼らが盾にする「二重の守秘義務」に加えて、そんな事情もあった。

 しかし、手探りでも合理的な作業を続けていると道は開ける。ある夜、郊外の住宅街で調査官の自宅を探し当てインターホンを鳴らした。役所で見覚えのある当の調査官が玄関先に出て来て、くらがりに立つ私の顔をじっと見た。

「大変ですね。記者さん、苦労されてますねえ」

 それから役所や上司たちの話になって、例のキャリア官僚に話題が及んだ。

「国税局を担当する前にいろいろあったもんですから、彼には会ってももらえませんよ。でも私は間違ったことをしたわけじゃない」

 私がそう言うと、彼は小さな声を出した。