「私は頼まれて物を云ふことに飽いた」
というわけで、次は創刊の動機について考えてみたいのだが、これについては「創刊の辞」で菊池寛が率直に語っている。
「私は頼まれて物を云ふことに飽いた。自分で、考へてゐることを、読者や編輯者に気兼なしに、自由な心持で云つて見たい。友人にも私と同感の人々が多いだらう。又、私が知つてゐる若い人達には、物が云ひたくて、ウヅ/\してゐる人が多い。一には、自分のため、一には他のため、この小雑誌を出すことにした」
いかにも菊池寛らしい本音と建前の乖離のまったくないテクストだが、しかし、ここで菊池寛が創刊の理由として挙げている、(1)自分が考えていることを一切の掣肘なしに言えるメディアを作りたい、(2)自分のまわりにいる若い人達の発言メディアを確保したい、という二つの動機についてはさらに掘り下げて分析する必要があるだろう。というのも、菊池寛が無意識でしか捉えていない時代状況の変化がこれにはからんでいるからである。
しかし、その前に、ここには挙げられていない第三の理由があったことを指摘しておかなければならない。それは、前年あたりから菊池寛が計画していた洋行が取りやめになったことである。大正11年の9月頃まで菊池寛は真剣に英仏独への洋行を考えており、大正10年11月には「大阪毎日新聞」の薄田泣菫に手紙を書いて、2年間の留学中だけ不定期通信員として通常の給与90円の倍の200円をもらえないかと打診していた。
「二年間位は居て勉強して充分偉くなって帰って来るつもりです。思想家としても偉くなって帰って来たいと思ふのです。(中略)どうもこのまゝ、日本に居ますと安逸な生活とつまらない虚名のために、駄目になってしまふやうな気がしますので、思ひ切って外遊し大成したいと思ふのです」(大西良生『菊池寛研究資料』)
この洋行計画は、結局、「大阪毎日」からOKが出なかったらしく、大正11年9月には頓挫し、菊池寛は自費での洋行を目指すことに方向転換して、「婦女界」の主幹・都河龍に対し、同誌への小説連載条件確認の手紙を書くことになる。