婦人誌がもたらした「夢のような金額」
もし、このとき洋行が実現していたら、「文藝春秋」の創刊はなかったか、あるいは数年遅れていたはずである。その代わり、思想家として偉くなって帰って来た菊池寛にパラレル・ワールドで出合えたのだから、歴史の損得勘定はトントンかもしれない。いずれにしても、大正11年の時点で菊池寛が洋行を断念し、翌年4月から「婦女界」に「新珠(にいたま)」を連載するという選択をし、それが「文藝春秋」創刊につながったことだけは確かなのである。おまけに、「婦女界」への進出は菊池寛にさらなる富をもたらした。『半自叙伝』にはこんな記述がある。
「その稿料は、一定の稿料の外に、雑誌一部につき二厘五毛ずつ位の印税を呉れた。一万部で二十五円であるが、これを稿料に加算すると、稿料が七、八円になった。(中略)尤も『婦女界』の時は、三十万部位出していたから、相当なものであった。稿料としては、一枚三十円位であったと思う」
現在の貨幣価値に換算すると30円は1円=3000円のレートで9万円。まさに夢のような金額というしかない。たしかにこれなら、少し書き溜めれば洋行費用くらい簡単に捻出できたのである。しかも、大正11年からは、春陽堂から『菊池寛全集』全5巻の刊行が始まって印税は入ってくるわ、新聞小説の舞台化、映画化で上演料や映画化料が入ってくるわで、菊池寛の月収は1万円だと噂されたりもした。しかし、そうなればなったで、成功をうらやむ者も出てくるし、スキャンダルを暴いてやろうとするジャーナリズムの動きも活発化するのは当然である。
というわけで、ようやく(1)の理由が前面に出てくることになる。菊池寛は創刊号の編集後記で、おおよそ次のようなことを述べている。すなわち、去年あたりからいろいろな人から悪口を言われたが、いちいち反論するのも大人気ないと黙っていた。しかし、これからは自分に対する非難攻撃には「文藝春秋」の誌面で答えるつもりである、と。
菊池は元々、悪口や非難には敏感に反応するタイプだった。友人や知人に対しても腹を立てると速達葉書や電報でただちに抗議したことが知られている。友人たちはこうした抗議文を「菊池寛の速達」と呼んでいた。
たとえば、広津和郎は『同時代の作家たち』(岩波文庫)で、『真珠夫人』の大成功で菊池寛が故郷の高松に錦を飾ったころ(大正10年の4月)のことを回想し、共通の友人であった岡栄一郎の虚言が原因で、菊池寛から次のような抗議の速達を受け取ったことを記している。
「君は僕が今度国に帰って金をいくら使ったなどと言い触らしているそうだが、人のふところの中など計算しないでくれ。君との今後の交友のため一言注意して置く」
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鹿島茂氏による「菊池寛・アンド・カンパニー」第14回の全文は、月刊「文藝春秋」2023年2月号および、「文藝春秋 電子版」に掲載されています。
「文藝春秋」創刊秘話