フランス文学者・鹿島茂氏の人気連載「菊池寛アンド・カンパニー」第14回「『文藝春秋』創刊秘話」の一部を転載します。(「文藝春秋」2023年2月号より)

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「3日で売り切れた」創刊号

 大正12年1月1日発行の奥付をもつ「文藝春秋」1月創刊号3000部は実際には大正11年の12月20日頃に定価10銭で書店店頭に並んだが、『文藝春秋六十年の歩み』収録の同人・佐々木味津三の回想によると、たった3日で売り切れたという。

 同じ大正12年の「中央公論」新年特大号が1円、「新潮」の同号が80銭だったから、定価10銭というのは段違いの安さで、現在の貨幣価値に換算すると300円くらい。安さに魅かれて購入した読者も少なくなかった。

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 ただ、当たり前だが、たとえ定価10銭でも売れない雑誌は売れない。3000部完売の理由は安さ以外にあったはずなのである。つまり、行き当たりばったりに見えながら、その実、菊池寛は時代状況の劇的変化を本能的に察知して創刊に向かって進んでいったのである。

 というわけで、今回は「文藝春秋」の根本的な創刊動機は何かを探ってみたいのだが、しかし、その前に「文藝春秋」というタイトルの由来と、巻頭エッセイというかたちでいまも残っている、五号ないしは六号活字の4段組みという体裁について触れておいたほうがいいだろう。

佐々木味津三 Ⓒ文藝春秋

 まずわかりやすいところで、雑誌タイトルの問題から行こう。これについては、同人の一人・佐々木味津三が回想で語っている。すなわち、佐々木は大正11年の年末に菊池から「蜘蛛」の同人と一緒に新雑誌の同人になれという手紙を受け取って、嬉しさのあまり「夜が明けた!」と叫んだエピソードを記してから翌朝の菊池宅訪問に筆を進めているのだが、そこにはタイトル決定についての証言があるのだ。

「帯をしめたやうなしめないやうな恰好で」あらわれた菊池は「ポケツトマネーの200円位はどうにでもなるからね。それで出すんだ。牙城といふ題はどうだらう。君、君、いかんかね」と尋ねたので、佐々木が「いかんです、文藝春秋がいいでせう」と、菊池の文芸時評のタイトルを口にすると、「それがよからう」ということで決まったというのである。これはかなり信憑性がある証言と見てよい(大西良生『菊池寛研究資料』)。

 また、「文藝春秋」という題字、および目次がそのまま印刷された表紙については、同じく佐々木の回想によれば「蜘蛛」の同人だった船田享二がコンパスと三角定規を持ち出して即席につくったものだという。ただし、題字はともかく、目次を兼ねた表紙というアイディア、および五号活字と六号活字の4段組みという体裁には別のソースがあったようだ。

 それは、マルクス『資本論』完訳版の最初の訳者として知られる高畠素之が尾崎士郎らとともに出していた国家社会主義の雑誌「局外」だった。菊池は「文藝春秋」創刊号の編集後記でも触れているように、この「局外」の体裁を借りることにして、大正11年暮れに自宅に招いた尾崎に許可を求めたばかりか、主宰の高畠素之に許可を懇請する手紙を出しているのである。

 ことほどさように、創刊すべき雑誌の、少なくとも形式面でのコンセプトは菊池の頭にしっかりとできあがっていたのである。

 また、発売元は春陽堂、発行所は文藝春秋社となっているが、これは名前のみで、菊池が制作費200円をポケットマネーで全額負担した純然たる個人雑誌であった。