たこ焼き、焼きそば、わたあめ、金魚すくい……賑やかな屋台が並ぶ風景は、日本のお祭りの風物詩である。運営している業者は「テキ屋」と呼ばれ、行政による締め付けが厳しくなった今、徐々にその数を減らしている。
『家族でテキ屋をやっていました』(彩図社)の著者である高里杏子さんは、わたあめとあんず飴の屋台を営む両親の元に生まれ育ち、小学校高学年から屋台の仕事を手伝っていたという。
ここでは同書より抜粋して、その「テキ屋デビュー」の一部始終を紹介。父が事件を起こして逮捕されてしまった直後、高里さんに母が告げた言葉とは——。(全2回の1回目/後編を読む)
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杏子にも商売を手伝ってもらうから
父の逮捕から1週間くらい経った、ゴールデンウィーク直前の4月半ばのことだったと記憶しています。
子ども部屋で遊んでいたら母に呼ばれました。居間にいくと、テーブルの上に水あめ、あんず、すもも、みかん、割り箸が置かれています。見慣れた父の商売道具です。
母は私に座るように促すと、真剣な顔で言いました。
「お父さんがいない間、杏子にも商売を手伝ってもらうから。お母さんはデンキ(わたあめ)をやるから、杏子はスイネキ(水あめ=あんず飴)を覚えてちょうだい」
母はそう言うと、すももを手に取り、割り箸に刺すと、それを水あめで包むようにコーティングしていきました。続いて割り箸に水あめを絡め、ほどよきところであんずやみかんを乗せて包んでみせました。
流れるような手付きに思わず感嘆の声が漏れました。
「父ちゃんの手伝いを始めたときは、全然うまくいかなかった。でも、すぐにできるようになったから、杏子も大丈夫よ」
母はそう言ってにっこり笑いましたが、その笑顔には、申し訳なさがにじんでいました。父という働き手を失ったため、誰かがその代わりを務めなければならない。母には頼れる者がいなかったので、白羽の矢が私に立ったのです。小学生の娘を商売に立たせなければならない、そのことを母が心苦しく思っていることがその笑顔から感じることができました。
それから、私は母からスイネキ作りの手ほどきを受けました。
小さな私には難しかったですが、「母ちゃんのためになんとかしなければ!」という思いがあったので、なんとか売り物として人様に出せるくらいの技術を身につけることができました。
そして、その週末、私は“デビュー戦”を迎えることになったのです。