最初で最後
家族を守るためだ。1件だけ、1件だけはやらなければならない――。
桶谷は、アカサカから指示された通りに道具をそろえた。粘着テープ、軍手、マスク、首に下げるネームホルダー、作業着、マイク付きのイヤホン。テレグラムの通話機能を使い、常に通話状態にしたまま犯行に及ぶよう指示された。具体的な指示はアカサカから、テラサキを名乗る男に入れ替わった。
「指示通りに動け」
1件目の住所が送られてきた。名古屋市内の民家だった。
「インターホンを押せ」「火災報知器の点検だと言って、家に入れ」
家人は思いのほか怪しむこともなく桶谷を中に招き入れた。いったん屋内に足を踏み入れたものの、桶谷は高齢の家人を目の前にして恐れおののき、外に出てしまった。
「やっぱり、やりたくありません!」
すると、テレグラムに桶谷の妻と子どもの写真が送り付けられてきた。「いつでも殺せるんだぞ」
強盗か、窃盗か
2件目の住所が送られてきた。テラサキが言った。
「これが本番だ」
インターホンを押したものの、応対に出た家人から「時間が遅いので明日にしてくれ」と言われ、切られてしまった。
すでに夜の7時を回っていた。
テラサキは激高していた。
「案件をつぶしてくれたな! お前に選択肢をやる。さっきの家に明日強盗に入るか、今日の深夜に別の家に忍び込んで現金を盗んで来るか、どっちか選べ」
桶谷は、強盗より夜中に窃盗をする方がいいと考えた。指示通りにガスバーナーと冷却スプレーを量販店で購入し、深夜を待った。周辺の家の明かりがまだついている。もう少し待った方がいい。それにしても、何か他にやめる言い訳はないものか……。
「静かにしろ! しゃべるな」
日付が変わった9月8日午前3時半。忍び込む家の周辺を見回っていると、耳元のイヤホンからテラサキの声が響いた。
「きょろきょろすんな!」
桶谷は驚いた。誰かに動きを見張られているのだ。ここで逃げたら、家族を殺される。やがて静寂が住宅街を満たし、家人が寝静まった頃合いを見計らって、桶谷は犯行に及んだ。言われた通りの方法で、ガスバーナーを窓ガラスの鍵の周辺に吹き付ける。そして冷却スプレーで一気に冷やす。
気体を吹き付ける独特の音に気付いたのか、窓ガラスの向こう側に人が起き上がる影が映った。桶谷は言った。
「逃げます!」
「逃げたら家族を殺すぞ! 静かにしろ。しゃべるな。入ったら早く縛れ!」
桶谷は窓ガラスを焼き破って施錠を解くと、目の前にいた女性(当時80歳)の顔面にタオルを押し当てて言った。
「静かにしろ! しゃべるな」
女性は抵抗し、叫び声を上げた。