本書は「私は若い頃から単語帳を作るのが好きだった」と始まる。続いて『語彙ノート』という名の単語帳の写真が掲載されている。宮崎哲弥の活躍は広い分野に及ぶが、仏教研究家としてもよく知られる。仏教語の漢字の読みは呉音である。宮崎がこれを楽に読めるわけがよく分かった。
本書でいう「上級語彙」は言語学者鈴木孝夫の分類による基本語彙(日常生活の中で使う言葉)・高級語彙(研究者などが用いる難しい言葉)の「高級語彙」に触発されたものだ。高級語彙というほどではないが、少し硬い本や講演などに使われる言葉を宮崎は上級語彙とした。これが乱れていたり誤用されたりでは、思考や文化は衰弱するだろう。「ビジネスの世界ではわけのわからないカタカナ洋語が〈席巻〉し」と批判した後で、「席巻」について文学者の用例も紹介しながら解説している。
解説文中に、その言葉を意図的に使い、すぐ後で出典を示す手法は、国語の名教師などが得意とするが、本書もこれに似ていようか。難読語を羅列しただけの類書もよく見るが、それでは記憶に残りにくい。
引用例は多岐にわたる。朝日新聞、毎日新聞はもとより、宮本百合子、小村雪岱(せったい)、吉川英治、中里介山などの小説、エッセイ…。この作家はこんな言葉で作品を書いていたのだなと思い浮かべるのも楽しい。
中にはこんな例もある。
●うろん【迂論】まわりくどい議論。
とした後で用例が次のように付く。
《斯(か)かる論は足の先が壊疽(えそ)に罹(かか)って腐り始めたときに細胞権を云々(うんぬん)して患部を切断することを躊躇(ちゅうちょ)するのと同様な迂論である》(丘浅次郎『人類の将来』)
丘は戦前の生物学者で『進化論講話』が有名だ。丘の著作から引用するのはなかなかの見識なのだが、続く次の行にある宮崎の注がまた面白い。
※「細胞権」(笑)
(笑)は私の文章ではない。宮崎の文章である。丘の皮肉な文章の面白さを宮崎は伝えたかったのだろう。先人たちの文章はその内容も表現も実は面白い。しかし、それは現代人には読みにくい。「国をこぞっての『言葉の〈平明(へいめい)〉化』運動」の結果である。「1980年代以降、テレビや新聞から『難しい言葉』を排除しようという方向に世の中全体」がなびいてきた。
その結果「わずか60年ほど前に死没した思想史家の文章すらスラスラ読めないことになる」「明治期、大正期の文学者、思想家、随想家の文章の多くは読解不能だろう」。
そもそも言語とは何か。宮崎は言う。「まず世界があって言語はそれを分別(ふんべつ)するための装置、記号」だと思われている。だが、それは逆だ。「言葉なしに世界は現象しない」「世界に向かい合うことはない」。言葉雑学辞典とは一線を画す好著である。
みやざきてつや/1962年、福岡県生まれ。慶應義塾大学文学部社会学科卒業。政治哲学、生命倫理、仏教論、サブカルチャー分析を主軸とした評論活動を行う。著書に『いまこそ「小松左京」を読み直す』『仏教論争』『正義の見方』などがある。
くれともふさ/1946年、愛知県生まれ。評論家。早稲田大学法学部卒業。著書に『バカに唾をかけろ』『日本衆愚社会』などがある。