副題「なぜ〈です・ます〉で論文を書いてはならないのか?」は、〈です・ます体〉で書いた論文が却下された時に著者がいだいた疑問だ。本書では〈です・ます体〉と〈である体〉、さらには〈だ体〉〈である体+だ体〉を視野に入れて話題を展開していく。
しかしタイトルは「日本語からの哲学」で、「この本は何の本ですか?」と問われたら「哲学の本です」と答えるのがふさわしい。
著者は自身の立てた問いを丁寧に追う。まず自身の考えを整理する第1部「問題編」。次に、これまでどのようなことが主張されているかを、精緻に追いかけていく第2部「国語学・日本語学編」。そして、哲学的な考察に入っていく第3部「日本語からの哲学編」。さらに、第3部をもとにした第4部「異論と展開編」がある。
著者は「まえがき」で3~8章あたりは「流し読み」してもいいと述べる。しかし、第2部には、これまでの国語学・日本語学の視野から抜け落ちていた可能性があることへの指摘があり、その分野の「みかた」そのものに対しての問題提起として興味深い。
問いをたて、その問いを整理し、これまで指摘されていたことをふまえ、さらに考え、予想される異論についても検討を加える。まさしく哲学の本であるが、誠実な言説を形成しようとしている著者の情熱を感じさせる好著だ。
問いから答えに至るプロセスはまるで推理小説を読むように進んでいく。副題の答えはもちろん本書に述べられているが、それは是非本書のプロセスに「はまって」読んでほしいので、ここではあからさまには書かないことにする。
少しだけ紹介するならば、著者は、客観性を担保すると考えられている〈である体〉について「抹消されるのは書き手ではなく、むしろ読者である。あるいは、書き手と読者の関係そのものである」と述べている。〈である体〉では語ることができない事態があり、領域があり、世界があるという著者のことばは示唆に富む。
また〈です・ます体〉は「その本質において二人称に対する語りかけの文体である」と述べ、両者の本質的な差異を「二人称の読者を認めるか認めないかであ」るととらえ、ここから二つの異なった世界・原理というとらえかたに展開していく。この展開はスリリングといってよい。
教育についても、「我々は言葉が何をなしうるかをまだ全然知らないのではないか」と発言するなど、そこここに、鋭い洞察や、きらきらした「気づき」がちりばめられている。
そして、最終章は「私の言おうとしていることは伝わっていますか?」という著者の〈です・ます体〉での呼びかけで終わる。
いつか、付箋をたくさん貼った本を持って、お話をしに行きたいです!
ひらおまさひろ/1965年、滋賀県生まれ。専門は哲学、倫理学。立命館大学、佛教大学などで講師を務めるかたわら、邦訳スピノザ全集の計画に携わる。著書に『人生はゲームなのだろうか?』『ふだんづかいの倫理学』など。
こんのしんじ/1958年、神奈川県生まれ。清泉女子大学教授。専門は日本語学。近著に『うつりゆく日本語をよむ』。