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 この老人ホームでは、体調が良ければ、自宅でお正月を過ごすことが許可されている。周りの仲間たちは、みな家族に迎えに来てもらって楽しそうに帰って行くのに、どうして自分は荷解きをしなければいけないのだろうか、としょんぼりしている石川さんの様子に、スタッフは誰も気づくことができなかった。そして事件は起きた。

4階の廊下の窓から自分で飛び降り…

 どさっ。12時を過ぎ、元日を静かに迎えた施設で、突然大きな音が響き渡った。夜勤の職員が慌てて外に飛び出すと、石川さんが血を流して地面に倒れていたのだ。すぐさま警察が駆けつけ、実況見分が始まった。もはやお正月どころではない。辺り一帯は騒然となった。石川さんは亡くなったのだという。

「それで、当時の警察の見立てはどうだったんですか?」と、職員の山田さんの話に聞き入っていた私が、ここでようやく口を挟んだ。2年前にこの施設で起きた悲しい事件について、休憩中に先輩が教えてくれたのだ。

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「4階の廊下の窓から自分で飛び降りたみたいだから、自死という扱いになったんだよ」と、先輩はとても残念そうに語った。

 本当に石川さんは自死だったのだろうか。生きていても家族に自由に会えないのなら、せめて今行動を起こすことで、自分の意志を貫き通そうとしたのかもしれない。命を落としてでも家に帰りたい、家族に会いたいという意志を。

家族に会えない孤独感や焦燥感で一時的に混乱状態に陥った可能性が

「だけどね、石川さんはただ飛び降りたんじゃなくて、植物の生け垣があるところを狙って飛び降りたみたいなんだ」と、山田さんはぼんやりと窓の外を眺めながらつぶやいた。

「それって、本当にただ1階に下りて家に帰りたかっただけなんじゃないですか?」と言いながら、私は胸の奥が熱くなるのを感じた。

 だとしたらこんなにも辛く悲しい事件はない。こんな結末を誰一人として望んではいない。石川さんの願いは、ただお正月を家族とともに迎えたいという、ささやかなものだったのだから。

 大晦日の夜、家に帰りたくなったが、外に出ようと思っても、エレベーターはおろか階段すら使えない。

 石川さんは、そこまで認知症の症状は強くなかったそうだが、家族に会えない孤独感や、4階に閉じ込められてしまった焦燥感で、一時的に混乱状態に陥った可能性があった。きっと息子さんも、あのとき無理をしてでも連れて帰っていたら、という自責の念に囚われてしまっただろう。